お茶を運んできたは唐突に言った。
少女が唐突でないことなど少数だったが。
司馬懿はお茶を飲むために筆を止めた。
書卓の上に並ぶ竹簡の山に、司馬懿はためいきをついた。
「いいこと思いつきました!」
ニコニコ笑顔では言った。
お茶をすすりながら、司馬懿は言った。
「そんなお前に一言、贈ろう。
馬鹿の考え休みに似たる」
お茶は飲みやすい温度で、薫り高かった。
「どうせ司馬懿様から見たら、私は馬鹿かもしれませんが、時に休むのも大切だと思いますよ」
真昼の照明器具のような少女は、全くめげずに言った。
「それで閃いた名案とは?」
期待せずに司馬懿は尋ねた。
「司馬懿様にハグをして差し上げます!」
「はぐ?」
聞き慣れない言葉だった。
殿あたりから入れ知恵を受けたのだろうか。
「こうすることですよ」
が司馬懿に抱きついた。
軽い衝撃に茶器から茶が零れなくて良かった。
司馬懿は書卓に茶器を静かに置いた。
「疲れが取れるそうです」
耳元での元気な声が響く。
「なるほど。
悪くはないな。
……ただ不満があるとすれば」
司馬懿は言った。
「不満ですか?」
の声が微かに震える。
「抱きしめられるよりも、抱きしめたい」
司馬懿はの腕を振りほどいて、小柄な体を抱きしめる。
「やはり、こっちの方があってるな」
「疲れは取れますか?」
そう問うたの頬を撫でる。
「小動物を抱えている気分だな」
司馬懿は正直に言った。
「もう少し、落ち着けないのか?」
そわそわしている少女の髪にふれる。
「自分が言い出しましたが、何か恥ずかしいですね」
「お前にもそんな感情があったのか」
司馬懿は苦笑する。
「乙女心ぐらい持っています!
私を何だと思っているんですか?」
が耳元で甲高い声を出す。
もう少し、しっとりとした声で話せないのか。
そんな無理な注文を司馬懿は思った。
「婚約者だ」
司馬懿は断言した。
「……それにしては扱いがぞんざいではありませんか?」
「何せ、初めてだからな。
不慣れなんだ」
司馬懿はの髪をやさしく梳く。
長い髪は絹をさわるような手触りだった。
護衛武将だった頃とは違った。
「私も初めてです」
は赤面しながら言った。
「初めて同士でちょうどいい釣り合いだな」
司馬懿は目を細める。
「こうしていると司馬懿様、あったかいですね」
腕の中でが言った。
「他人を湯たんぽ代わりにするな」
虚しくなるではないか。
「そんなつもりで言ったわけじゃありません。
冷血漢って噂は嘘だなぁと思って」
暢気には言う。
「都合の良い噂だ」
「司馬懿様が実はやさしいってことが、みんなに伝わればいいのに」
「余計なお世話だ」
司馬懿はの髪から一房とると、口づけを落とす。
「お前が知っていれば充分だ」
「寂しくないですか?」
が顔を上げて司馬懿を見つめる。
「弱点はできるだけ、少ない方がいい。
敵が多いからな」
司馬懿は事実を言った。
「わざと敵を作っていませんか?」
「それも仕事の内だ」
「司馬様ばっかり。
不公平ですよ」
「私の代わりに怒ってくれるのか。
面映ゆいな」
こうして怒ってくれる相手がいる。
そのかけがえのなさが嬉しかった。
「もう、これぐらいのことしかできませんから」
黒く大きな瞳が揺れた。
護衛武将ではなくなったことを悔いているのだろう。
実に分かりやすい反応だった。
「充分だ。
それに私が今の私でなければ、とっくのとうに良家の娘を妻に迎えていただろう」
「私なんかでいいんですか?」
「同じ言葉を返そう」
司馬懿は口角を上げる。
「私は司馬懿様じゃなきゃ、ダメみたいです」
は視線を逸らした。
「それが私の答えだ。
不安になることはない」
司馬懿はできるだけやさしくの頭を撫でた。
溜まった疲労がどこかへと行ったようだった。
こうしてふれあっていたい、そう願うほどには居心地が良かった。
仕事のためにを手放すのが惜しい。
休憩時間はもう少し長くてもいいのかもしれない。
二人きりの甘い時間を堪能したい。
司馬懿は腕に力をこめた。