「3月14日」編 22年版

 
 護衛武将が両手いっぱい花を抱えて、司馬懿の書斎に訪れた。
 執務を行っていた司馬懿は硯の上に筆を置く。
 チリンと澄んだ音が鳴った。
「どうしたんだ、その花は」
 司馬懿は尋ねた。
 は両手いっぱいに桃の花を携えていた。
「司馬懿様の書斎が殺風景だから、飾ろうと思いました」
 素直には答えた。
 見事な桃の花だった。
 女性から男性に桃を送る意味は知らないのだろう。
 それがわかるほど、真っ直ぐな声だった。
 知らず知らずに期待をしていた司馬懿はためいきをついた。
「出所の話を訊いているんだ」
 司馬懿は言った。
 は花瓶を書卓に置くと、花を活け始めた。
「殿から貰ったんです。
 正確には、甄姫様ですが」
 鮮やかな桃の花が、竹簡の山と不釣り合いだった。
 まるで、自分と護衛武将のように。
「理由もなく、か?」
 司馬懿は微苦笑を浮かべた、
 花を活け終わったは司馬懿の方を向き直る。
「司馬懿様。
 お忘れかもしれませんが、今日はホワイトデーです。
 この桃の花は、先月のお返しですよ」
 黒い瞳が、夜闇の色だというのに明るい。
 まるで真昼の照明器具のように、無駄に明るい。
 今日がホワイトデーだということぐらい、司馬懿でも知っている。
 だからこそ桃の花が気になったのだ。
 女性が桃を男性に送る、その意味は『あなたの子どもが欲しい』という意味だ。
 先月のチョコレートよりも熱烈の意味があった。
 だからこそ、が桃の花を持って、入ってきた時は驚いたのだ。
「殿にチョコレートを渡したのか?」
 司馬懿は眉をひそめて訊いた。
「甄姫様が手作りのチョコ饅を作るのに、ちょっと手伝っただけですよー。
 司馬懿様はチョコレートを食べないでしょう?
 なので、気分だけでも味わいたいと思って」
 はハキハキと答える。
「誰も食べないとは言ってはいない」
「好きではない、と仰っていたじゃないですか」
「微妙に意味が違うだろう」
 司馬懿は、ためいきをつく。
 欲しいと言えば手に入ったのだろうか。
 護衛武将がくれるチョコレートは、本命ではないだろう。
 お歳暮やお中元のような義理のチョコレートだろう。
 そんなものをもらっても虚しいだけだ。
「同じですよー。
 食べられないチョコレートが可哀想です。
 それに私が贈らなくても、チョコレートの山ができていたではありませんか。
 お返しはしたんですか?」
 無邪気には言った。
「殿ほど、まめではないからな。
 期待もされていないだろう」
「だから司馬懿様はモテないんですよ」
「大勢からモテるよりも、たった一人からモテたいものだがな」
 思わず、司馬懿は本音を零した。
 口にすることはないはずだった。
 少なくとも目の前の護衛武将には、聞かせるわけにはいかない話だった。
「司馬懿様、意中の人がいるんですか!?」
 は大きな瞳をさらに大きくして瞬かせる。
 司馬懿は微苦笑を浮かべた。
「そんなに意外か?」
「そりゃあそうですよ!
 司馬懿様だったら何でも手に入りそうなのに」
「残念ながら手に入らないものの一つだ」
 司馬懿はを見つめた。
 意味が通じていないのが、よくわかった。
「そうなんですか。
 あ、言いふらしたりしませんよ。
 お相手の名前を聞いてもいいですか?」
 は尋ねた。
「後悔するかもしれないぞ。
 西の国には、好奇心は猫をも殺すという言葉もある」
 司馬懿は口角を上げて言った。
 効果てきめんだった。
「……じゃあ、いいです」
 は勢いよく、首を横に振った。
 黒く長い髪がサラサラと後をついていった。
 それすら、ふれることはできない。
 惜しかった。
「用件はそれだけか?」
「それだけです」
 はキッパリと言った。
 お返しに期待をしていない。
 それがありありとわかった。
「なら、退がれ」
「はーい。
 休憩時間にはお茶を淹れますね。
 それまでにリクエストを考えていてください」
「適当でいい」
 司馬懿は言った。
「それが一番、困るんですよ。
 それじゃあ、失礼します」
 と元気よく出ていった。
 嵐のように騒々しくやってきた護衛武将は、嵐のように去っていった。
 司馬懿は誰も聞く者もいない部屋で
「馬鹿め」
 と小さく呟き、花を撫でた。
 そつなくお返しができるほど器用ではない。
 肝心のチョコレートをもらっていないのだから。
 貰いたい物を貰えず、渡したい物を渡せず。
 どうにも不器用な心は惨めすぎた。
 素直になれる方法なんて、純粋だった頃に捨ててしまった。
 それを今更、後悔する。
 欲しかった物は、こんな物ではない。
 司馬懿は花びらを一枚千切って、唇でふれた。
 それから、ゆっくりと手放した。
 桃の花はひらりと、書卓の上に落ち着いた。
 司馬懿は硯から筆を取る。
 忙しい、と言い訳して竹簡を広げる。
 所詮、主従の関係だ。
 それ以上の関係になることはできないだろう。
 その前に、どちらかの生命が終わる。
 すれ違っただけの出会いだ。
 思い出が重なるほど、重たくなっていく。
 は書卓の上の、役に立たない水色の弾棋のようなものだった。
 いつかは砕けて散る。
 それを見守る。
 桃の花びらと並んでいる姿に、司馬懿は深くためいきをついた。

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