護衛武将が両手いっぱい花を抱えて、司馬懿の書斎に訪れた。
執務を行っていた司馬懿は硯の上に筆を置く。
チリンと澄んだ音が鳴った。
「どうしたんだ、その花は」
司馬懿は尋ねた。
は両手いっぱいに桃の花を携えていた。
「司馬懿様の書斎が殺風景だから、飾ろうと思いました」
素直には答えた。
見事な桃の花だった。
女性から男性に桃を送る意味は知らないのだろう。
それがわかるほど、真っ直ぐな声だった。
知らず知らずに期待をしていた司馬懿はためいきをついた。
「出所の話を訊いているんだ」
司馬懿は言った。
は花瓶を書卓に置くと、花を活け始めた。
「殿から貰ったんです。
正確には、甄姫様ですが」
鮮やかな桃の花が、竹簡の山と不釣り合いだった。
まるで、自分と護衛武将のように。
「理由もなく、か?」
司馬懿は微苦笑を浮かべた、
花を活け終わったは司馬懿の方を向き直る。
「司馬懿様。
お忘れかもしれませんが、今日はホワイトデーです。
この桃の花は、先月のお返しですよ」
黒い瞳が、夜闇の色だというのに明るい。
まるで真昼の照明器具のように、無駄に明るい。
今日がホワイトデーだということぐらい、司馬懿でも知っている。
だからこそ桃の花が気になったのだ。
女性が桃を男性に送る、その意味は『あなたの子どもが欲しい』という意味だ。
先月のチョコレートよりも熱烈の意味があった。
だからこそ、が桃の花を持って、入ってきた時は驚いたのだ。
「殿にチョコレートを渡したのか?」
司馬懿は眉をひそめて訊いた。
「甄姫様が手作りのチョコ饅を作るのに、ちょっと手伝っただけですよー。
司馬懿様はチョコレートを食べないでしょう?
なので、気分だけでも味わいたいと思って」
はハキハキと答える。
「誰も食べないとは言ってはいない」
「好きではない、と仰っていたじゃないですか」
「微妙に意味が違うだろう」
司馬懿は、ためいきをつく。
欲しいと言えば手に入ったのだろうか。
護衛武将がくれるチョコレートは、本命ではないだろう。
お歳暮やお中元のような義理のチョコレートだろう。
そんなものをもらっても虚しいだけだ。
「同じですよー。
食べられないチョコレートが可哀想です。
それに私が贈らなくても、チョコレートの山ができていたではありませんか。
お返しはしたんですか?」
無邪気には言った。
「殿ほど、まめではないからな。
期待もされていないだろう」
「だから司馬懿様はモテないんですよ」
「大勢からモテるよりも、たった一人からモテたいものだがな」
思わず、司馬懿は本音を零した。
口にすることはないはずだった。
少なくとも目の前の護衛武将には、聞かせるわけにはいかない話だった。
「司馬懿様、意中の人がいるんですか!?」
は大きな瞳をさらに大きくして瞬かせる。
司馬懿は微苦笑を浮かべた。
「そんなに意外か?」
「そりゃあそうですよ!
司馬懿様だったら何でも手に入りそうなのに」
「残念ながら手に入らないものの一つだ」
司馬懿はを見つめた。
意味が通じていないのが、よくわかった。
「そうなんですか。
あ、言いふらしたりしませんよ。
お相手の名前を聞いてもいいですか?」
は尋ねた。
「後悔するかもしれないぞ。
西の国には、好奇心は猫をも殺すという言葉もある」
司馬懿は口角を上げて言った。
効果てきめんだった。
「……じゃあ、いいです」
は勢いよく、首を横に振った。
黒く長い髪がサラサラと後をついていった。
それすら、ふれることはできない。
惜しかった。
「用件はそれだけか?」
「それだけです」
はキッパリと言った。
お返しに期待をしていない。
それがありありとわかった。
「なら、退がれ」
「はーい。
休憩時間にはお茶を淹れますね。
それまでにリクエストを考えていてください」
「適当でいい」
司馬懿は言った。
「それが一番、困るんですよ。
それじゃあ、失礼します」
と元気よく出ていった。
嵐のように騒々しくやってきた護衛武将は、嵐のように去っていった。
司馬懿は誰も聞く者もいない部屋で
「馬鹿め」
と小さく呟き、花を撫でた。
そつなくお返しができるほど器用ではない。
肝心のチョコレートをもらっていないのだから。
貰いたい物を貰えず、渡したい物を渡せず。
どうにも不器用な心は惨めすぎた。
素直になれる方法なんて、純粋だった頃に捨ててしまった。
それを今更、後悔する。
欲しかった物は、こんな物ではない。
司馬懿は花びらを一枚千切って、唇でふれた。
それから、ゆっくりと手放した。
桃の花はひらりと、書卓の上に落ち着いた。
司馬懿は硯から筆を取る。
忙しい、と言い訳して竹簡を広げる。
所詮、主従の関係だ。
それ以上の関係になることはできないだろう。
その前に、どちらかの生命が終わる。
すれ違っただけの出会いだ。
思い出が重なるほど、重たくなっていく。
は書卓の上の、役に立たない水色の弾棋のようなものだった。
いつかは砕けて散る。
それを見守る。
桃の花びらと並んでいる姿に、司馬懿は深くためいきをついた。