欲しいもの

 
 はお茶を書卓に置いてから、ぼんやりと司馬懿の顔を見ていた。
 竹簡に書きものをしていた司馬懿の手が止まる。
 真冬の太陽のような瞳がを見つめる。
「もの欲しそうな顔だな」
 と司馬懿は冷淡に言った。
 それすら婚約者である少女には愛おしく響いた。
「別に、深い意味があったわけでは……」
 はあわてる。


 お仕事中に、じっと見られたら気が散るよね。
 ごめんなさい。
 すぐに出ていきますから。
 ちょっと残念だけど。
 ほんのちょっぴり傍にいたかったんです。


 の心の中は忙しかった。
 それに司馬懿は気がついているのか、気がついていないのか。
 筆を硯の上に置いた。
 そして、少女を無言で手招く。
 はほいほいと司馬懿の傍に来る。
 何も考えずに。
 油断をして。
「欲しいものがあるなら、手に入れるべきだ。
 後悔はできないからな」
 司馬懿のひんやりとした指先が、の唇をなぞる。


 ちょっと、待ってください!
 そんな意味深なことをされちゃうと、困っちゃうんですが。
 心の準備が、できていません!


 少女の心臓が景気良く飛び跳ねる。
「ただ司馬懿様って美形だなぁ、て思って。
 でも観賞的ではないなぁ、と考えていただけです」
 は思っていたことを口から垂れ流した。
「ずいぶん、偉そうな立場になったな。
 他人を観賞用にするとは」
 司馬懿の目がすがめられる。


 もしかして、もしかしなくても怒ってる?
 だから言いたくなかったのに!
 でも……。


「思っちゃったものは仕方がないです。
 司馬懿様だって、もう少し愛想を振りまいても良いと思いますよ」
 は心の中で思っていたことを口にした。


 隠し事は苦手〜。
 何でも、こうしてしゃべっちゃう。
 司馬懿様の前で秘密を持っても、意味がないのかもしれないけど。
 なんたって曹魏の軍師の一人なんだから。


「お前のようにか?」
 青年は険しい顔のまま尋ねた。
「へ?
 私、そんな要領がいいですか?」
 は目を瞬かせる。
 司馬懿はためいきをついた。
 それがの唇にふれる。
 まるで、くちづけされたような感覚に、は赤面する。
 それぐらい二人の距離は近い。


 罪なほど美形だよね。
 本当に、見とれちゃうぐらいに。
 これだけ美形なら、もっと違うことにだって役立てそう。
 全然、自分の外見に気遣っていないみたいだけど。
 そんなところも好きだけど!
 え、好きとかおこがましいかな。
 バレちゃいけないよね。


 とは思い唇を引き結ぶ。
「何か言いたそうだな」
 司馬懿は言った。
「言ったら怒られそうです」
「怒るかどうかの判断は、ことを訊いてから判断する。
 どんなことを考えていたんだ?」
「言えません」
 は唇を手で覆い隠す。
「そう言われると、言わせたくなるな」
 司馬懿はの手の甲にくちづける。


 卑怯です〜。
 こんな綺麗な顔立ちをして、そんなことをするなんて。
 思わず言ってしまいそうになるじゃないですか。
 まるで、我慢比べの拷問です!
 墨のいい香りがして、司馬懿様の匂いだと思う。
 こんな近くにいて、心臓はドキドキしっぱなしだし。
 甘すぎる誘惑です!


 司馬懿はの額に、長く伸びた髪に、首筋に、唇を這わせる。
「きゃっ!」
 少女はとうとう悲鳴を上げた。
 真冬の太陽のような色の瞳は楽し気だった。
「話す気になったか?」
 司馬懿のひんやりとした手がはの手をやさしく取り払う。
 少女は目を右往左往させて、それからうつむいた。


 やっぱり素直に言わなきゃ駄目だよね。
 司馬懿様、もっと意地悪するよね。
 だって、楽しそうなんだもん。
 もういいや。
 馬鹿にされても言っちゃう!


「司馬懿様のことが好き、って思ったんです」
 は床を見つめながら言った。
「今更、隠すようなことか?」
 落胆した声がした。
 もっと、違うことを期待していたのだろうか?
 少女の胸には羞恥心でいっぱいだった。

 
 やっぱり、あきれられた。
 だから、言いたくなかったのに!
 告白するのは、本当に恥ずかしかったのに!
 司馬懿様にとって、見ればわかる状況かもしれないけど。
 それでも、私にとっては重要なことだったんです。
 ……現在進行形で。


「私ばっかり好きなような気がして、ちょっぴり不公平だなって」
 少女は視線を泳がせる。
 ひんやりとした手が、の頬をなでる。


 司馬懿様の手って気持ちいい。
 このまま、時間が止まってしまえばいいのに。
 そうしたら、ずっと司馬懿様と二人きりで話していられるから。
 ちょっと恥ずかしいこともするかもしれないけど。
 こ、こ、婚約者だから、当然なのかもしれないけど。
 司馬懿様がどんなことをしても、嫌いになれない。
 本当に美形は罪作りだよね。


「言葉にしないとわからないか?」
 司馬懿が尋ねる。
「不安になるんです」
 は顔を上げて、訴えた。


 命ぐらいしか、役に立てなかった。
 護衛武将じゃなくなった今は、それすら意味がないし。
 司馬懿様が飽きたら、捨てられる。
 それ以上に、こんなことを考えているということを知られて見捨てられるのは嫌。



 甘くやさしく、司馬懿が名を呼んだ。
 これから起こることに、少女の脈拍はさらに早くなる。
「目を閉じろ。礼儀だぞ」
 司馬懿が言った。
 は静かに目を伏せた。
 その後、柔らかな感触が唇に落ちた。

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