司馬懿の左手側に、茶器が静かに置かれた。
それに気がつけばがお盆を抱えて、立っていた。
ずいぶん、立ち振る舞いが身についたものだと青年は思った。
は寒村生まれで、文字もろくに書けなかった少女には見えないだろう。
「私って司馬懿様の婚約者なんですよね」
疑問形の言葉がポツリと零された。
どこか不思議そうな言い方だった。
まるで信じられないようなものを見ているような。
「破棄したくなったか?」
司馬懿は茶器を取る。
すぐ飲めるようにとの配慮だろうか。
ちょうど良いぬくもりが伝わってきた。
「まさか!
でも、ちょっと心配になったんです」
大きな黒い瞳が床に落ちる。
「不安になる要素をした覚えはないが……。
何をしたいんだ?」
司馬懿は尋ねた。
「話が早いですね」
は瞳を瞬かせる。
闇夜よりも深い色の瞳に輝きが戻る。
「仕事が詰まっている。
要点だけ簡潔に言え」
司馬懿は淡々と言った。
「……やっぱりいいです。
曹魏が誇る軍師を煩わせるわけにはいきません!」
お盆を抱えたままは言った。
司馬懿はためいきをついた。
「用件を言え」
己が選んだ婚約者を見つめた。
「あのですね……。
梅林を手を繋いで散歩したいな、と思って。
花が練り香のように良い香りがするんです。
司馬懿様、最近外出していないから、ちょうどいいかなって思ったんです。
……忘れてください」
はつっかえつっかえ言う。
よっぽど、一緒に散策がしたいのだろう。
婚約者だからといって、放置しすぎた。
司馬懿の心がほんの少し、痛んだ。
「支度をしろ」
司馬懿は茶を一口含んで言った。
薫り高い茶葉は美味しかった。
「へ?」
はきょとんとする。
「ちょうど休憩しようと思っていたところだ」
この分では気になって仕事にならないのだろう。
それなら気持ちを切り替えた方がいい。
「いいんですか?
お仕事があるって」
「花が咲いているのは一時的なものだ。
その時しか、見ることはできない」
司馬懿は後悔をしないように言った。
◇◆◇◆◇
梅林は見事に咲いているのに、すれ違う人がいなかった。
「殿でなくても、詩を読みたくなるな」
紅白を取りそろえた梅林に、司馬懿は呟いた。
「抜け穴スポットなんです。
殿が甄姫様と歩くから、遠慮する人が多いんです」
の声は弾んでいた。
それだけ嬉しいのだろう。
こんな他愛のないことで。
「詳しいな」
「でも、この時間は殿も執務中だから安心してください。
誰にも見られません」
は胸を張る。
「見られても困らんが」
司馬懿は言った。
「え?」
「婚約者と散策しているぐらいでは75日も持たないだろう」
噂になってもかまわなかった。
「そんなものですか?」
「そんなものだ」
司馬懿は青空を見上げ、曹魏の色だと確認する。
この広い空のような世界を守っていかなければならない。
繋いだ手が二度と離れ離れにならないように。
視線を感じて、の方を向いた。
「私、幸せです。
司馬懿様と一緒にいられて」
太陽のようなくっきりとした笑顔を見せる。
司馬懿は少女の額にくちづけをする。
日に焼けた葉だが見る見ると赤くなる。
は空いている方の手でくちづけされた場所にふれる。
「何をするんですか!?」
驚きを隠さずに、<は言った。
「婚約者らしいことだ」
司馬懿はしれっと答える。
の唇がへの字になる。
それから、少女はうつむいた。
固い蕾がほころびるような様子に、司馬懿は満足を覚えた。