司馬懿の唯一の護衛武将がお茶を運んできた。
薫り高いそれを司馬懿の利き手とは逆の方向に置く。
それは音もなく置かれた。
侍女としての才能もあるようだった。
青年は筆を硯の上に置いた。
カラン。
硯と筆の軸が当たり、澄んだ音を立てた。
青年は登城してから働きづめだった。
ここらで休憩するのも、悪くはないだろう。
茶碗を包むように持つと、肩の荷が下りたような気分になる。
突然、頭に二文字が過った。
それは『幸せ』という感情だった。
何の気なしに護衛武将に尋ねてみた。
きっと少女がいつでも『幸せ』そうに見えたからだろう。
すべては思いつきだった。
深い意味は、ないはずだった。
「『幸せ』はどんなものだ?」
司馬懿の質問に、は瞬きをした。
「『幸せ』ですか?」
オウム返しに問い、首を傾げた。
三つ編みにまとめられた髪が揺れる。
「よく食べて、よく眠って、よく笑うことですよ」
は当たり前のことのように言った。
この戦乱の世の中で、単純でいて、難しいことを口にする。
貧しい村で食べ物を調達するのはどれほど難しいことだろうか。
明日を知らない身で、寄り添いあう眠りは充分にとれるだろうか。
死が身近にあって、笑っていられることは、どれほど得難いことだろうか。
寒村育ちの少女には『幸せ』からほど遠く感じられた。
それとも曹魏に仕えるようになって余裕ができたのだろうか。
なんにせよ頭で考えるよりも、思ったことを話してしまう少女らしい答えだった。
「司馬懿様にはみんな足りていませんね。
だから『幸せ』は何かなんて、ありきたりなことを考えちゃうんです。
『幸せ』なんてものは、すぐ傍にあるものですよ」
は笑顔で言った。
それは『幸せ』だと言っていた。
護衛武将という立場にありながら。
自分の生命は盾にされるためにある、というのに。
少女はすでに初陣を果たしている。
過酷な生命のやりとりの中に身を置いている。
生命が儚いことを知っている。
それでも『幸せ』そうに笑っていた。
だから、唯一でいられる。
「そうか」
司馬懿はお茶をすする。
は目を瞬かせる。
「司馬懿様、どうしたんですか?
てっきり馬鹿々々しいとか、凡愚めとか、真昼の照明器具だとか、言われると思ったんですが。
嫌味を言わない司馬懿様は司馬懿様らしくないですよ。
もしかして具合が悪いんですか?」
は慌てて言う。
「一理あると思っただけだ」
司馬懿はためいきをついた。
信を置ける相手にすら、冷血漢だと思われているのか。
それが自分の評価だと思うと、一言、言いたくなるものだ。
「凡人には凡人の『幸せ』があるのだろう?」
司馬懿はあえて回りくどい言い方を選んだ。
その様子に、の表情が落ち着く。
弱音も吐けない。
自分で自分を作ってきたのだから、仕方がない。
青年は茶碗を握り締める。
少女は一介の護衛武将にすぎない。
「司馬懿様の『幸せ』を探してみますか?
……まあ、仕事が終わらないでしょうけど」
はチラリと山積みになった竹簡を見る。
仕事は増えていくばかりだ。
それだけ戦火が広がっている証拠のようだった。
「司馬懿様なりの『幸せ』があると思うのです」
の黒い瞳が司馬懿を見つめた。
「そんなものを信じるほど弱くないつもりだ」
司馬懿は言い切った。
氷よりも冷たい軍師であれるように。
指先ひとつで生命を刈り取るように。
「そうですよねー。
私としては司馬懿様は曹魏の中で一番頑張っている人だから、個人的な『幸せ』を見つけてほしいんですが。
だって司馬懿様は自分よりも、国の『幸せ』を取っちゃいそうなんですもの。
確かに、みんなが『幸せ』になることはいいことです。
でも一番に『幸せ』になるのは自分自身でいいと思います。
それぐらいの我が儘を言ってもいいと思います」
必死には言った。
心からの思いだろう。
それが、司馬懿を嬉しくさせる。
少なくとも青年の『幸せ』を願ってくれる人物が一人はいるということだった。
それだけで高揚する心もどうかと思うが、確実に『幸せ』な気分になった。
難しく考えすぎていたようだ。
少女が言ったように、すぐ傍にあった。