「大変です、大変です!
 大変、たいへん、へんたいです!」
 唯一の護衛武将が司馬懿の執務室に飛びこんできた。
 お茶の時間には少し早い。
 書類整理をしていた司馬懿は顔を上げた。
「誰が変態なんだ?」
 司馬懿は尋ねた。
「それは決まっています!
 司……」
 小さな口をパクパクさせる。
 声にならない言葉の続きが沈黙になった。
 は失言前に気がついたようだ。
「誰だ?」
 司馬懿は面白くなって問いを重ねた。
「し……死にたい人です」
 どうにか少女は誤魔化すことができたようだ。
 正直、面白くなかったが、
「今度は何があった?」
 話をうながす。
「まるで私をトラブルメーカー扱いしないでください!」
 は抗議する。
「どうせくだらない話だろう。
 そんなものにいちいち付き合うほど、暇ではない」
 司馬懿は断言した。
「内容を聞いてから、判断してくれてもいいと思うのですけど」
 は食い下がる。
「見えないのか? この山になった書類が」
 青年は竹簡の山を軽く叩く。
 今にも崩れそうな微妙なバランスで重なっている。
「司馬懿様も大変ですね」
 はしみじみと言った。
 完全に同情されていた。
 それほどの書類の山だった。
「理解できたのなら、茶でも淹れてこい」
 司馬懿はためいき混じりに言った。
「はーい!」
 は執務室に飛びこんできたのと同じように、元気よく出て行った。

   ◇◆◇◆◇

「それで大変なんです」
 は書卓にお茶を置く。
 香りを楽しみながら
「その話は終わったと思っていたが。
 凡人には伝われなかったか」
 司馬懿は茶を飲む。
「だって、司馬懿様に好きな人がいる、なんて、すっごい噂だと思いませんか?」
 黒い瞳をキラキラと輝かせながらは言った。
 退屈な時期に、噂が好きなのは女子どもだろう。
 少女も例外ではなかっただけだろう。
「私にも好悪の区別ぐらいある」
 どれだけ城内に広がっているのだろうか。
 考えただけで頭痛がしてくる。
「じゃあ、噂は本当なんですね。
 どんな人ですか?」
 は盆を抱えて、無邪気に尋ねてくる。
「知りたいか?
 世の中には知らない方が幸せという例もあるが……」
 司馬懿が思わせぶりに言うと、
「……急に聞きたくなくなってきました」
 は子兎のように震える。
 その様子が面白くなってくる。
 青年の中に眠る加虐性が表に浮かび上がってくる。
「最初に話の種をまいたのは、お前の方だ。
 責任はきちんと取ってもらいたいものだな」
 少なくなってきた茶を揺らしながら笑う。
「その人は司馬懿様も幸せにしてくれるような人ですか?」
 は不思議な問いかけをしてくる。
 幸せ……、それはどんなものだろう。
 戦乱の世に生まれ落ちた中で、それは得難いものだろう。
「さて、どうだろうな」
「司馬懿様に好きな人がいるって聞いて、ちょっとショックだったんです」
 は盆をぎゅっと握り、うつむいた。
 司馬懿の心臓が飛び跳ねる。
 期待をしてしまう自分がいた。
「護衛武将として長い時間、一緒にいるのに、気がつかなかったって」
 見当外れな答えに、司馬懿は落胆した。
「鈍感だからだろう」
 司馬懿は残りのお茶を飲み干す。
「追い打ちをかけないでください。
 本当にビックリしているんですから」
「それだけか?」
 司馬懿は空になった茶碗を書卓の端に置く。
「どういう意味ですか?」
 は茶碗を盆の上に載せる。
「驚いているだけなら、一生気がつかないだろう」
 冷淡に司馬懿は言った。
「司馬懿様、意地悪です。
 別に司馬懿様の好きな人を探りたいわけじゃないです。
 まあ、護衛武将的には知っておいて損ではないと思いますが。
 確実に弱点になりますから」
 どこまでも真剣な言葉に、司馬懿はためいきをついた。
 情報通とは思えない護衛武将が知っていたのだ。
 噂はどこまでも拡散されただろう。
「お茶のおかわり、持ってきますね」
 跳ねるような仕草で、は退出した。
 司馬懿は筆を取り、仕事を再開した。
 その後、司馬懿は誰に聞かれても、好きな女性の名を言うことはなかった。
 噂は次の戦いの出陣へと変わっていった。
 それでも、根深く訊いてくる人物はいなくもなかったが、答えなかった。
 司馬懿は、想うほど想ってもらえない苦しみに、恋の苦さを味わった。
 恋とは思うままにはできないものだ。
 戦場の方が得手だった。
 どうにも調子を狂わせられる。
 唯一の護衛武将には、もう少し自分の価値というものを考えてほしいと、司馬懿は思った。
 書卓の上に載った水色のおはじきを見やった。
 弾棋にも使えない硬度のそれは、淡い色が心をなぐさめる。
 それだけのことだった。
 そういうものだった。
 司馬懿は面白くなさそうに仕事を再開した。

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