風邪


 いつでも人の気配に囲まれていた。
 だから、たった一人で部屋にいるのは辛かった。
 まどろみから覚めて、は目を開く。
 夢の続きを見ているようだった。
 こんな場所にいない人がいた。
 一番、会いたかった人がいる。
 現実感がなかった。
 まだ夢の中にいるような気がした。

「あー、司馬懿様だ」

 我ながら締まりのない声を出してしまった。
 司馬懿はますます顔を険しくする。
 どうやら夢ではなかったようだ。
 反射的に上体を起こそうとしたら、青白い手に制止されてしまった。
 壊れ物を扱うように、やさしく頭を枕に戻される。
 子どもの頃に戻ったようで、くすぐたかった。
「私がいなくても大丈夫ですか?」
 は照れ隠しに尋ねた。
 目の前の青年の人使いの荒さは定評があった。
 何人もの人たちが職を辞していた。
「自分の世話ぐらい自分でできる」
 司馬懿はキッパリと言いきった。
「それならいいんですけど」
 少女は掛布団を口元まで引き上げる。

 私の代わりは、いっぱいいる。
 取り換えの聞く歯車の一つなんだ。

 そう思ったら、胸の奥がきゅーっと締めつけられた。
 鼻がツンッとした。
 目が潤んできた。
「風邪、移りますよ」
 明るい口調を作って言った。

 笑え。
 いつものように、何も知らない顔をして。
 困らせないように。
 曹魏で一番忙しい人が目の前にいるのだ。
 それだけでも幸せだと思わなきゃ。

「もう遅いな。
 室内に入った段階で移る」
 淡々と司馬懿は言った。
 少女の知らない知識だった。
「そうなんですか!
 だったら、どうして来たんですか!」
 は跳ね起きた。
 病人よりもよっぽど青白い手が力強く、を布団に戻す。
「自分の頭で考えろ。馬鹿め」
 この季節の太陽のような色の瞳が揺れたように見えた。

 心配してくれたのだろうか。
 だとしたら、果報者だ。
 これ以上の喜びはない。

「私は司馬懿様の顔が見れて幸せです」
 は思っていることをそのまま口にした。
「なら、早く治すのだな。
 私の護衛武将は、たった一人だからな」

 風邪で苦しいのに、すっごく幸せ。
 私にとって司馬懿様が『特別』なように。
 司馬懿様にとっても『特別』なのかなぁ。
 たとえ補充のきく護衛武将だとしても。
 長く勤められたら、変わっていくのかなぁ。

「司馬懿様の手、冷たいですね」
 額に乗せられた手が心地よかった。
「お前が熱いのだ」
「心があたたかい人は手が冷たい、って聞きました」
「俗説だ」
 額に乗せられた手のように冷たい反応だった。
 それが青年らしくて、少女はクスクスと笑った。
 ようやく笑うことができた。
 先ほどまで感じていた寂しさはなくなった。
 真冬の厳しい寒さを柔らかに蕩かす太陽な瞳に見つめられ、嬉しくなる。

 いつまでも、司馬懿様の護衛武将でいたい。
 生命が尽きるその瞬間まで。
 これほどまでにやさしい人に仕えられて幸せだ。

「すぐに風邪を治しますね」
 は言った。
「当たり前だ」
 司馬懿は冷淡に言う。
 いつものようなやりとりに、少女は本当に嬉しくなった。
 青年のひそめられた眉も、少しは和らいだようだった。

 早く元気になって、司馬懿様の傍にいたい。
 くだらないことを言って怒られて。
 お茶を淹れれば褒められて。
 戦場では、この身を盾として。
 生命が続く限り、ずっと傍らにいたい。
 いつかは消える生命だとしても。

 は心の中で祈った。

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