蕩けそうな穏やかな昼下がり。
曹魏の御旗のごとく空は青く澄み、幾何学模様の窓枠の影が部屋に落ちる。
光は平等に司馬懿の部屋にも零れている。
護衛武将の少女と二人きりだったが、甘やかな空気はなかった。
竹簡を開く音と、本の頁をめくる音が空間を満たしていた。
「司馬懿様ー」
名を呼ばれて見やれば、大きな黒い瞳と出会う。
心地よい静寂は破られた。
「何だ?」
司馬懿は竹簡に目を戻す。
今日中に終わらせなければいけない決済が山積みだった。
硯の池にたまった墨に、筆を浸す。
「幸せの続きはないんですか?」
は不思議そうに言った。
司馬懿は意味を取りかねた。
型破りな少女はいつでも意外性を提示する。
「お話は、めでたしめでたしで終わりますよね。
でもお話にも人生みたいに終わりってないと思うんです」
の言葉に、司馬懿は筆を置いた。
静かに本を読んでいた少女は、真剣な面持ちをしていた。
本を読み終えたのだろう。
女子供が喜びそうな民話を集めた本を与えたのは司馬懿だった。
普段、騒々しい少女もこれで大人しくなるだろうと思ってのことだ。
意外に早く読み終えたようだった。
自分の名前すら書けなかった少女にしては大進歩と言ったところだ。
「お話が終わって、登場人物たちはどうなるんでしょう?
ずっと幸せなままなんでしょうか?
それとも、新しい苦難が待ち受けているのでしょうか?
私は幸せの続きが気になります」
は本を抱えて、書卓に近寄ってきた。
月のないような闇夜の双眸が答えを求めている。
「めでたしめでたしで終わるのなら、幸せが続くのだろう」
考えてもみなかったことを、青年は答えにした。
物語には終わり来るのは当然だった。
「ずっとですか?」
は本を抱えなおす。
「新しい苦難が待っているのなら、物語は続くだろう。
物語が終わるということは、それでおしまいだということだ」
「じゃあ、ずっと幸せなんですね。
たくさん苦しいことが続いたから、みんなずっと幸せだといいです」
はニッコリと笑った。
登場人物に感情移入するほど、物語が気に入ったらしい。
「そうか」
司馬懿は筆を取る。
護衛武将の他愛のない話に付き合っているほど暇ではない。
「本、ありがとうございました」
「元の場所に戻しておけ」
「はーい!」
元気の良い声が返事をする。
軽い足音が遠ざかる。
書棚に本を置く音が耳に入る。
「お茶、淹れてきますね」
に言われて、司馬懿は茶碗を見やる。
白い茶碗には残り少ないお茶が入っていた。
司馬懿はぬるくなったそれを空にする。
ほろ苦い味がした。
「殿から新しい茶葉を貰ったんです。
新茶だから、きっと美味しいですよ」
鍛錬を重ねる小さな手が空になった茶碗を持つ。
「じゃあ、行ってきます!」
にぎやかには退がる。
再び部屋には静寂が戻った。
それなのに司馬懿は竹簡を読み進めることができなかった。
「幸せの続きか」
そんなことを想像したこともなかった。
今だけで精一杯だった。
明日のことすら、信じられない世の中だ。
いつ出陣の命が出てもおかしくない。
火種は眠っているだけだ。
あと何回、少女のおしゃべりに付き合うことがあるのだろうか。
一瞬一瞬が貴重なものだということを再確認させられた。
竹簡の山は密偵が集めてきた情報や軍の整備に関するものばかりだ。
戦いの準備は着々と進んでいる。
そろそろ大きな戦が始まりそうだった。
物語の主人公たちのように、めでたしめでたしでは終わらなさそうだった。
書卓の端で光を受けている水色のおはじきを見つめた。
幸せそうに見えた。
今はいない少女の姿と重なった。
永遠というものを信じたくなった。
それこそ物語のように。