「誰かのために生きるって素敵だと思うんです」
お茶を運んできたが唐突に言う。
日に焼けた手が書卓に茶器を丁寧に置く。
突拍子もないことはいつものことだ。
簡単な文章なら読めるようになってきたから、それの影響だろうか。
護衛武将らしい発言だった。
鑑と褒めるような言葉だ。
奏上文を書いていた司馬懿は手を止めた。
筆を置き、書卓の片隅に置かれた弾碁の駒を見る。
水色のそれは青空を写したかのように、キラキラと輝いていた。
硬度が低く実戦には向かない。
完全に観賞用の駒だった。
「自分の人生だ。
好きなように生きたいと思わないのか?」
司馬懿は尋ねてから愚問だと気がついた。
少女は遊郭にすら入れない寒村の出だ。
生命しか価値がない。
自由に生きる、という選択肢がない。
一日をやりすごすだけに必死で、未来を思い描くことなどできない。
家族が身を寄せ合って、どうにか生きている。
貧しい暮らしの中、戦の終わりを待っている。
どこにでもある幸薄い家の育ちだ。
青年は少女に視線を移す。
射干玉のような瞳が司馬懿を見つめていた。
「好きに生きていますよ。
司馬懿様の護衛武将になれて幸せです」
は屈託なく笑った。
そこには媚びへつらいはなく、純粋なものだった。
真昼の照明器具のように無駄に明るかった。
使い捨てのようにされる兵士で幸せだと笑う。
青年には理解できないことだった。
「戦場で司馬懿様を助けることができるのは私だけですからね。
頑張っちゃいますよ」
朗らかには言う。
司馬懿はためいきをついた。
一緒にいる時間が増えたのが原因だろう。
己の生命すら指先ひとつで失われる。
それよりも身分の低い兵士は、言わずもがなだ。
「誰かのために生きるってスゴいことですよ。
自分よりも大切なものがあるってことですよ。
その誰かが私にとって、司馬懿様なんです。
お役に立てるのが嬉しいです」
は言葉を重ねる。
その分、司馬懿の心に蓄積していくものがある。
弾碁の駒のように観賞用だったら、違ったのだろうか。
二人は曹魏の武将と護衛武将として出会った。
喪失することが初めから決まっていた。
人がいつかないから書生と女官のような仕事をしているが、本来は戦場でしか共にいない。
司馬懿は茶器に手を伸ばす。
一口含むと芳醇な香りがした。
今までたくさんの死を見送った。
敵も味方も。
戦のない世界を作るために、戦をしている。
矛盾しているが曹魏は天子を得た。
王道を歩む、ただ一人の王者。
司馬懿が生きている間に、三国は統一されるだろう。
だが、その時、少女が隣にいるとは限らない。
冷血と呼ばれる己にしては、ずいぶんと情が移ったものだ。
唯一の護衛武将にかける言葉が見つからない。
これ以上、都合の良い話を聞き続けていたら勘違いしそうだ。
長い人生を一緒に過ごす。
永訣の時は、昼下がりの蜜のような時間。
たくさんの人に惜しまれながら、眠るように黄泉路を進む。
そんな選択肢があるのではないか。
青年はためいきをつく。
夢見がちな少女と一緒にいると調子が狂う。
独りきりになりたかったから、司馬懿は茶器を飲み干す。
空になったそれを書卓の上に置く。
「あ、おかわり持ってきますね」
は盆の上に茶器を移す。
軽い足取りで、部屋を出ていく。
司馬懿は書きかけの奏上文に視線を移す。
次の戦の作戦案だった。
早く平和な世界を作り出さなければ、生命は失われていくばかりだ。
両手のひらの隙間から零れ落ちていく砂のように、生命は儚い。
一粒も零したくない。
そんな甘い考えが脳裏をよぎる。
どうしても少女を失いたくないようだった。
司馬懿の世界の中心が変わっていくことに苦笑いする。
貪欲なまでも固執する。
誰にも言えないことだった。
誰にも見せられないことだった。
総大将は平等でなければならない。
弱さを見せてはいけない。
冷静でなければならない。
全軍の士気に関わることだ。
それでも、と思ってしまう。
堂々巡りをする。
が帰ってくるまでに冷血な曹魏の軍師に戻らなければならない。
いつもの自分に。
軽い足音が聞こえてきた。
そんなに急がなくてもいいのに。
独りの時間はおしまいのようだった。
司馬懿はためいきを一つ、ついた。