後悔


 昼の喧騒は消え、星たちが歌う時刻となった。
 室内は蝋燭の明かりだけが頼り。
 竹簡を抱えて司馬懿は寝室に入った。
 は寝台の端に腰かけていた。
 少女は青年に気がつき、顔を上げた。
「後悔しているんです」
 ささやくような声では言った。
 真昼の照明器具のように、無駄に明るい少女には似合わない。
 もっとも夜の寝室では、このぐらいがちょうど良い。
「珍しいな」
 司馬懿は素直な感想をもらした。
「私だって後悔の一つや二つぐらいあります」
 少女は気色ばむ。
「どんな後悔をしているんだ」
 司馬懿はの隣に座った。
「それは……」
 は言いよどむ。
「私には言えぬことか?」
「言っても怒りませんか?」
 黒い大きな瞳が司馬懿を見上げる。
 蝋燭の灯火のように揺れていた。
「内容にもよるだろう」
「なら、言えません」
 は視線を床に落とした。
「より聞きたくなったな」
 司馬懿は竹簡を寝台の上に置く。
「他人の気持ちも考えずに、面白がっていますね。
 人権の無視ですか?」
 はうつむいたまま言った。
 その表情は暗い。
「一人前にも人権を主張するのか?」
 司馬懿は手を伸ばし、少女の髪にふれる。
 普段結ばれている髪は、真っ直ぐと垂らされていた。
 絹のような手ざわりがする。
「知らなければ良かった、と思ったんです」
 消え去りそうな小さな声が言った。
 少女は膝の上に乗っていた手を握りこんだ。
「何を、だ」
 司馬懿は答えに気づきながら、尋ねた。
「好きになるって楽しいことばかりじゃないんですね。
 苦しいことの方が多いって、気がついたんです」
 頼りのない声は泣き出しそうだった。
「今更だな。
 それで後悔をして、想いを断ち切れるのか?」
 青年は少女の髪を一房絡めとる。
「司馬懿様、意地悪です。
 こんなに辛い思いをしているのに、司馬懿様のことがどんどん好きになっちゃうんです」
「困ることなのか?」
 青年は、格段に手ざわりが良くなった髪に満足を覚える。
 少女の途惑いは加虐の愉悦を引き出す。
「だって、司馬懿様のことを考えると胸がきゅーっと締めつけられるんです。
 前みたいに、傍にいられるだけで幸せだった頃と違うんです。
 一緒にいればいるほど、離れている時間が辛いんです」
 は切々と胸の内を語る。
 その様子がどれほど司馬懿に幸せを知らせるのか、無垢な少女は気がつかない。
「それが恋というものだろう。
 存分に、味わえ」
 青年は淡々と事実を告げた。
「司馬懿様は感じないんですか?」
 今宵のような双眸が、司馬懿を見上げる。
 月のない夜のような瞳は、微かな期待を宿していた。
 それは瞬く星のような儚いものだった。
「さあ、どうだろうな」
 青年は口の端に笑みを浮かべる。
「私だけ辛い思いをしているのはずるいです」
 は言った。
 想った分だけ想い返してもらえる。
 そう信じている、調子だった。
「私は意地悪らしいからな」
 司馬懿はの髪を手放す。
 クセのない髪はさらりと持ち主に戻った。
「怒ってますか?」
 大きな瞳が真っ直ぐに司馬懿の瞳を見つめる。
 そこには怯えと不安が宿っていた。
「たまには自分で考えてみたら、どうだ?
 その頭は飾り物か?」
「私よりも司馬懿様のほうが百倍は賢いじゃないですか」
「そうだな」
「認めちゃうんですね」
「嫌いか?」
「そんな自信家の司馬懿様も好きなんです。
 意地悪で、卑怯で、ずる賢くて、腹黒くて、不親切で、姑息で、非道で」
「ずいぶんと悪口が並ぶな」
「すみません。
 つい垂れ流しちゃいました。
 でも、そんなところも好きなんです」
 は力説する。
 混じりけのない好意は甘美だった。
「何に困っているんだ?」
 やさしく尋ねてやる。
 少女の中に眠る気持ちをより味わいたかった。
「司馬懿様のことが好きなのが苦しいんです」
 呟くようには言った。
 明るく元気なのが取り得の少女にしては弱々しい。
 それがいっそ哀れだった。
「代わってやることは、できないな」
「好きにならなければ良かったって後悔しているんです」
「それで?」
「それだけです。
 でも、もう元には戻れないことも知ってるんです」
 歳相応とまではいかないが、寝室で耳にするには似つかわしい声だった。
「なるほどな。
 では、恋の甘さも教えてやらなければいけないな」
 司馬懿はの頬にふれた。
 陶器のようにすべらかな手ざわりに、青年は喜ぶ。
「え。
 けっこうです。
 遠慮しておきます」
 察したのだろう。
 少女は逃げるように首を振る。

 青年は少女の名を呼んでやる。
「司馬懿様、楽しんでいるでしょう?」
 少女はためいきをついた。
 それから、諦めたかのように静かに瞳を伏せた。
「特別扱いしてやっているのだから、喜んでもらいたいものだな」
 司馬懿はの唇に、自分のそれを重ねた。

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