司馬懿が目覚めたら、はいなかった。
 少女が早起きなのは知っていたから、驚きはしなかった。
 護衛武将でなくなっても、目覚める時間は変わらない。
 庭でも散策しているのだろう、と思い二度寝を決めこんだ。
 幾何学模様の窓枠を太陽が照らしても、は帰ってこなかった。
 それに不審に思い、司馬懿は起き上がった。
 どうやら璃も一枚かんでいるようで、笑顔で一人前の食事を運んできた。
 独りで食べる朝餉は味気ないものだった。
 食事を終え、身支度をすると、司馬懿はを探しに出た。


「いつまで隠れ鬼をしているつもりだ?」
 姿を見せない少女に苛立ちながら、青年は言った。
 この部屋にいることは確実だ。
 屋敷の中で、少女が行ける場所は限られている。
 司馬懿は懐から硬貨を取り出した。
 部屋の真ん中で、それを落とす。

 チリーン。

 硬貨は床に落ち、甲高い音を立てた。
「お金の音!」
 書卓の下からが飛び出してきた。
 水色の衣をまとった少女と視線が合った。
 うっすらと施された化粧が、いつもより大人びさせていた。
 少女が逃げ回っていた理由が解けた。
 璃の差し金だろう。
「あ、司馬懿様」
 は“しまった”という顔をした。
 司馬懿は硬貨を拾った。
「これが欲しいのか?」
「卑怯ですよ」
 少女は紅が乗った唇を尖らせる。
「卑怯なのはどちらだ」
 司馬懿は言った。
 朝から避けられ続け、すでに昼餉の時間に近い。
 一度は失いかけられた生命だ。
 共にいなければ、不安になるというものだ。
「こちらにも事情というものがあるんです」
 は重々しく言った。
「どうせ、くだらないことだろう」
「そりゃあ、司馬懿様からみたらくだらないことかもしれませんが。
 私にとっては切実なんです」
 黒く大きな瞳が訴える。
「こんなものにつられるなんて、安い切実だな」
 青年は硬貨をしまう。
「大金持ちの司馬懿様にとっては、はした金かもしれませんけど、私にとっては貴重なお金です!」
 お金にがめつい少女は言った。
「欲しいならくれてやろう」
「え!?
 良いんですか。
 は、それで釣ろうとしても引っかかりませんよ。
 タダより怖いものはないって知っています」
「賢くなってきたな」
「そりゃあ、司馬懿様の傍にいますから。
 三国一の軍師の傍に控えていたら、多少なりとも学がつきます」
 は胸を張って言う。
 司馬懿は手を伸ばしの唇をなぞった。
 柔らかな感触に内心で笑みが零れる。
「紅で手が汚れますよ」
 無垢なところがある少女は言った。
「どうせ、すぐにはげる」
 司馬懿の言葉に、は遅まきながら理解したようだった。
 少女の頬がみるみる紅潮する。
「嫌か?」
 司馬懿の問いに、は困ったような顔をした。
 それから、諦めたかのように目を伏せた。
 青年は満足げに少女の頬をなでる。



 名を呼んでやる。
 それから、唇を重ねた。
 果実のような香りがした。

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