「お前の分だ」
司馬懿は己の護衛武将に白紙をつきつけた。
小柄な少女はきょとんとした顔で、青年を見上げた。
「新年の抱負を書くように、と殿からの言いつけだ」
何で私がそんな雑事に手を煩わされなければならないのだ、と司馬懿は零した。
白い紙を手にしたは小首を傾げる。
邪魔にならないように結ばれている黒く長い髪が揺れる。
「抱負?」
不思議そうに言った。
学のない寒村の出の少女には見知らぬ言葉だったのだろう。
黒く大きな瞳はまっすぐに司馬懿を見つめる。
「簡単に言うと願い事だ。
あるいは一年の目標か」
噛み砕いて説明をする。
それが煩わしくて、ずる賢い教え子は手を抜いたのだろう。
司馬懿は苛立ちながら書卓につく。
「願い事。
……願い事。
ご飯をお腹いっぱい食べられますように」
少女は言った。
おそらく口に出している事には気がついていないのだろう。
は白紙を真剣に見つめていた。
「暖かい部屋で過ごせるように」
ささやかな願い事だった。
「兵糧の量が足りていないのか?」
司馬懿は尋ねた。
「え? 兵糧ですか?」
は大きな瞳を瞬かせる。
「軍全体の事は司馬懿様のほうが詳しいと思いますけど。
私個人的には足りてますよ」
はニコッと笑った。
大方、故郷に残してきた家族のことを考えていたのだろう。
生命ぐらいしか、売る価値のない少女らしかった。
「毎日、美味しいご飯で嬉しいです。
抱負と関係あるんですか?
あ。もしかして、またしゃべっていましたか?」
「垂れ流していたな」
司馬懿はひじ杖をついた。
「すみません」
白紙がふるふると震える。
「気をつけているんですが、司馬懿様の前だと気が緩むのか……。
ついしゃべっちゃうんですよね。
どうしてでしょう?」
は頭を下げた。
長い髪がそれに倣う。
手にふれられないそれは、幾分か艶めいて見えた。
「お前のような立場の者でも、喰うに事欠くなら重大だと思ったのだ」
司馬懿の唯一の護衛武将。
大きな戦場でなければ役に立つことはないだろうが、貴重な戦力だ。
青年の下で長く続く勤めることができるような人材は、そうそういない。
手厚い手当てが当てられているだろう。
「それは大丈夫です!
毎日、美味しいご飯を食べさせてくれています。
曹魏は偉大ですね」
「それならいい」
青年は視線を紙へと滑らせる。
何を書けばいいのだろうか。
いっそ辞職届にしてやろうか、と考えたくなる。
今年も生き延びた。
新しい一年、昨日の続きのような顔している。
そこには希望も喜びもない。
死なないように無様にあがき続けるだけだ。
書かなければ問題になるだろう。
面倒だと思いながら司馬懿は白紙をにらみつける。
他人が見られても困らないような一年の目標。
筆を硯の池へと沈める。
そこで、気がつく。
軍議から帰ってきたばかりなのに、何故だろう。
「あ、墨ならすっておきました。
すぐにお仕事ができるようにって。
お茶、淹れてきましょうか?」
は言った。
丁寧に白い紙を折り、懐にしまう。
司馬懿の返事を待たずに、少女は部屋を飛び出していく。
青年はためいきを一つついた。
「結局、訊きそびれたな」
曹魏の勝利を、と白い紙に書きつけながら呟いた。
の願い事は何だろうか。
俸給のアップだろうか。
それすらも仕送りをする家族のためだろう。
少女の個人的な願い事は何だろう。
いくらでも補充の利く護衛武将の将来を考えている。
それに呆然としながら、青年は筆を置いた。
「馬鹿なのは私か」
司馬懿は言った。
答える者はいなかった。
だから、そこに宿る気持ちも秘されることになった。