クリスマス2016


「司馬懿様! 司馬懿様! 司馬懿様!」
 今日も城中に明るい声が響く。
「くどい」
 名を呼ばれた青年は立ち止まる。
「他人の名を連呼するな。
 一度言えば気がつく」
「だったら、一度で返事をしてくださいよ」
 肩で息をしながらは言った。
「時間が惜しい。
 どうせくだらない用件だろう」
 青紫の袍をまとった痩躯の青年は歩き出した。
 軽い足音がついてくる。
「くだらないか、どうかは聞いてから判断してください」
 少女は声を尖らせる。
「お前の持ってくる話の大半はくだらない。
 聞くに値しないものだ」
 司馬懿は言った。
 ここ曹魏でも年末進行中で、大忙しな日々が続いている。
 冬のために大きな行軍はないものの、小競り合いは少なからずある。
 青年が直接指揮を執るようなことはないが、報告書が毎日山のように届いている。
 それを捌くだけでも大変なのに、風流を好むリーダーがいると大変だった。
 一年の労いをこめて、宴会が開かれる。
 理由をつけて呑みたいだけではないだろうか。
 毎回、欠席するわけにもいかない。
 今日も宴会が待っている。
 その前に、少しでも書類を片付けたいところだった。
 暢気な護衛武将に付き合っている時間など皆無だ。
「大半は、ってことは少しは役に立っているってことですよね!」
 の声が弾む。
 どこまでも前向きな少女は、真夏の太陽のようだった。
 公平に暑さを連れてくる。
 青年がもっとも苦手とする季節だった。
「司馬懿様のお役に立てて嬉しいです!」
 理解に苦しむことを口にする。
 司馬懿の護衛武将なのだから、司馬懿のことを一番に考えることは間違いではない。
 その忠誠心は得がたいものだろう。
 文字通り命がけで、盾になるのだから。
 小さい体で、司馬懿を守ってくれる。
 それを疑うことがないのは、幸運なことだろう。
「もうすぐ『くりすます』ってものがやってくるんですよね!
 何でも願い事が叶う夜なんですよね。
 大きな樹にお願いを書いた短冊を吊るすんですよね」
 は楽しそうに言った。
 短い言葉の端々に突っ込みどころが満載だった。
 わざと言っているのかと振り返ると、宙で黒い瞳と出会う。
 大きな瞳は期待と希望でキラキラと輝いていた。
 司馬懿はためいきをついた。
「その情報は殿からか?」
「はい!
 今日の昼間、弾棊をしたんですよ!
 あ、ただ遊んでいたわけじゃないです!
 今日は風が強いから、弓矢の訓練が短くすんだんです。
 司馬懿様は軍議があったから、わからなかったかもしれませんが。
 矢がまっすぐ飛ばないで、風に流されちゃうほどだったんです!
 サボったわけじゃないですよ!」
 は力説する。
「『くりすます』は『さんたくろーす』という老人が良い子に贈り物を運んでくる夜だ」
 司馬懿は誤解を正す。
「良い子限定なんですか?」
 感情が出やすい少女らしく肩を落とす。
 それを見て、余計な手間を増やしてくれたなと思う。
「じゃあ、司馬懿様は願い事を叶えてもらえますね」
 は顔を上げた。
 そこには満面の笑みが広がっていた。
「どうして、そうなる」
「だって、司馬懿様は曹魏のために誰よりも頑張っているじゃないですか!」
 自明の理だと言わんばかりに、少女は強調する。
「贈り物をもらえるのは子どもだけだ」
「え? じゃあ、大人はもらえないんですか?」
「そうだ」
 やはり無駄な時間だったな、と司馬懿は歩き出す。
 教えるなら中途半端な知識ではなく、正しい知識を伝授すべきだ。
 都合の良いように、話を曲げるのは先代そっくりだ。
 似なくても良いところほど良く似た親子だ。
 困ったものだ、と司馬懿はためいきをついた。
「わかりました!
 私が司馬懿様の『さんたくろーす』になります!」
 明るい声が青年を追いかけてきた。
「どんな願い事も叶えます!」
 軽い足音が司馬懿を通り越す。
 小柄な少女が目の前にやってきた。
 大きな瞳には決意の二字が浮かんでいた。
 どうしても『くりすます』とやらをやりたいようだった。
 面倒なことが一つ増えた。
「他人に叶えてもらうような願い事などない」
 司馬懿はきっぱりと言った。
「嘘です!
 願い事のない人間なんていません」
 は鋭く言った。
 大なり小なり欲望を抱えているのが人間だ。
 青年にも叶えてほしいと思った願い事はある。
 ただ、願うことを諦めてしまっただけだ。
 いつまでも一途な子どもではいられない。
「それならば、仕事の邪魔をせずにお茶でも淹れてきてくれ」
 ためいき混じりに司馬懿は言った。
「言われなくても、お茶ぐらい淹れます。
 書類整理のお手伝いだってします。
 戦場では弓矢で司馬懿様のお役に立ちます」
 少女が食い下がる。
 どうしても、願い事を叶えたいらしい。
 他人のために何故そこまで真剣になれるのか、青年にはわからなかった。
 押し問答を続けている時間がもったいない。
 こうしている間にも書斎には、竹簡が続々と運びこまれているだろう。
「当たり前だ。
 そのための護衛武将なのだからな」
 青年は少女を避けて、歩き出した。
「司馬懿様!」
「くどい」
「まだ一回しか呼んでません!」
「用事なら済んだだろう。
 お茶を淹れて来い」
 司馬懿は書斎に逃げこむ。
 どうにも調子が狂う。
 真夏の太陽にあぶりだされるように、朦朧とする。
 熱に浮かされて叶わぬ願いを口にしそうになる。
 書卓の上には竹簡が増えていた。
 一つを開き、硯に目をやると墨がたっぷりと作られていた。
 ここにはいない少女が準備をしておいてくれたのだろうか。
 留守にしていたのに、書斎は快適な温度だった。
 司馬懿はためいきを一つついた。


 願い事は一つだけ。
 幸せになりたい。
 戦乱の世では難しい、祈りにも似た願い事だった。

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