「司馬懿様! 司馬懿様! 司馬懿様!」
今日も城中に明るい声が響く。
「くどい」
名を呼ばれた青年は立ち止まる。
「他人の名を連呼するな。
一度言えば気がつく」
「だったら、一度で返事をしてくださいよ」
肩で息をしながらは言った。
「時間が惜しい。
どうせくだらない用件だろう」
青紫の袍をまとった痩躯の青年は歩き出した。
軽い足音がついてくる。
「くだらないか、どうかは聞いてから判断してください」
少女は声を尖らせる。
「お前の持ってくる話の大半はくだらない。
聞くに値しないものだ」
司馬懿は言った。
ここ曹魏でも年末進行中で、大忙しな日々が続いている。
冬のために大きな行軍はないものの、小競り合いは少なからずある。
青年が直接指揮を執るようなことはないが、報告書が毎日山のように届いている。
それを捌くだけでも大変なのに、風流を好むリーダーがいると大変だった。
一年の労いをこめて、宴会が開かれる。
理由をつけて呑みたいだけではないだろうか。
毎回、欠席するわけにもいかない。
今日も宴会が待っている。
その前に、少しでも書類を片付けたいところだった。
暢気な護衛武将に付き合っている時間など皆無だ。
「大半は、ってことは少しは役に立っているってことですよね!」
の声が弾む。
どこまでも前向きな少女は、真夏の太陽のようだった。
公平に暑さを連れてくる。
青年がもっとも苦手とする季節だった。
「司馬懿様のお役に立てて嬉しいです!」
理解に苦しむことを口にする。
司馬懿の護衛武将なのだから、司馬懿のことを一番に考えることは間違いではない。
その忠誠心は得がたいものだろう。
文字通り命がけで、盾になるのだから。
小さい体で、司馬懿を守ってくれる。
それを疑うことがないのは、幸運なことだろう。
「もうすぐ『くりすます』ってものがやってくるんですよね!
何でも願い事が叶う夜なんですよね。
大きな樹にお願いを書いた短冊を吊るすんですよね」
は楽しそうに言った。
短い言葉の端々に突っ込みどころが満載だった。
わざと言っているのかと振り返ると、宙で黒い瞳と出会う。
大きな瞳は期待と希望でキラキラと輝いていた。
司馬懿はためいきをついた。
「その情報は殿からか?」
「はい!
今日の昼間、弾棊をしたんですよ!
あ、ただ遊んでいたわけじゃないです!
今日は風が強いから、弓矢の訓練が短くすんだんです。
司馬懿様は軍議があったから、わからなかったかもしれませんが。
矢がまっすぐ飛ばないで、風に流されちゃうほどだったんです!
サボったわけじゃないですよ!」
は力説する。
「『くりすます』は『さんたくろーす』という老人が良い子に贈り物を運んでくる夜だ」
司馬懿は誤解を正す。
「良い子限定なんですか?」
感情が出やすい少女らしく肩を落とす。
それを見て、余計な手間を増やしてくれたなと思う。
「じゃあ、司馬懿様は願い事を叶えてもらえますね」
は顔を上げた。
そこには満面の笑みが広がっていた。
「どうして、そうなる」
「だって、司馬懿様は曹魏のために誰よりも頑張っているじゃないですか!」
自明の理だと言わんばかりに、少女は強調する。
「贈り物をもらえるのは子どもだけだ」
「え? じゃあ、大人はもらえないんですか?」
「そうだ」
やはり無駄な時間だったな、と司馬懿は歩き出す。
教えるなら中途半端な知識ではなく、正しい知識を伝授すべきだ。
都合の良いように、話を曲げるのは先代そっくりだ。
似なくても良いところほど良く似た親子だ。
困ったものだ、と司馬懿はためいきをついた。
「わかりました!
私が司馬懿様の『さんたくろーす』になります!」
明るい声が青年を追いかけてきた。
「どんな願い事も叶えます!」
軽い足音が司馬懿を通り越す。
小柄な少女が目の前にやってきた。
大きな瞳には決意の二字が浮かんでいた。
どうしても『くりすます』とやらをやりたいようだった。
面倒なことが一つ増えた。
「他人に叶えてもらうような願い事などない」
司馬懿はきっぱりと言った。
「嘘です!
願い事のない人間なんていません」
は鋭く言った。
大なり小なり欲望を抱えているのが人間だ。
青年にも叶えてほしいと思った願い事はある。
ただ、願うことを諦めてしまっただけだ。
いつまでも一途な子どもではいられない。
「それならば、仕事の邪魔をせずにお茶でも淹れてきてくれ」
ためいき混じりに司馬懿は言った。
「言われなくても、お茶ぐらい淹れます。
書類整理のお手伝いだってします。
戦場では弓矢で司馬懿様のお役に立ちます」
少女が食い下がる。
どうしても、願い事を叶えたいらしい。
他人のために何故そこまで真剣になれるのか、青年にはわからなかった。
押し問答を続けている時間がもったいない。
こうしている間にも書斎には、竹簡が続々と運びこまれているだろう。
「当たり前だ。
そのための護衛武将なのだからな」
青年は少女を避けて、歩き出した。
「司馬懿様!」
「くどい」
「まだ一回しか呼んでません!」
「用事なら済んだだろう。
お茶を淹れて来い」
司馬懿は書斎に逃げこむ。
どうにも調子が狂う。
真夏の太陽にあぶりだされるように、朦朧とする。
熱に浮かされて叶わぬ願いを口にしそうになる。
書卓の上には竹簡が増えていた。
一つを開き、硯に目をやると墨がたっぷりと作られていた。
ここにはいない少女が準備をしておいてくれたのだろうか。
留守にしていたのに、書斎は快適な温度だった。
司馬懿はためいきを一つついた。
願い事は一つだけ。
幸せになりたい。
戦乱の世では難しい、祈りにも似た願い事だった。