思い切りよく扉が開かれた。
三国一キレやすい軍師の執務室をめいっぱい開ける人物は限られている。
春とは名ばかりの冷たい風が室内を旋回する。
部屋の主の眉間のしわが深くなった。
「司馬懿様、どうしたんですか?
いつもよりも三割増しで顔色が悪いようですが、昨日何かありましたっけ?
不眠は仕事の能率を下げますよ」
一言も二言も多い護衛武将は、春の嵐のように元気に言った。
「開口一番のセリフがそれか」
不機嫌な青年は呪いをかけるように低い声で言った。
「あ、そうですね。
おはようございます!」
はぺこりと頭を下げた。
黒髪がそれに従って、さらさらと零れる。
最近、手入れが行き届き始めたのか、艶やかな髪に司馬懿は満足を覚えた。
「大荷物のようだな」
少女が抱えている紙袋に目をくれてやる。
「あ、これは貴重な食料です!
妙才様、文遠様、儁艾様、それと殿からもいただきました。
バレンタインデーのお返しだとか。
義理チョコだったのに、皆さん丁寧にお返しをくれたんですよ。
しばらくお菓子を買わなくてすみそうです!」
残酷なまでに嬉しそうには言った。
司馬懿の気も知らずに。
「お茶を淹れて来い。
二人分だ」
青年はためいき混じりに言った。
「はーい。
わかりました!」
少女は来た時、同様に駆け出した。
紙袋は床に置き去りにされた。
司馬懿は視線を竹簡へと無理矢理動かした。
竹簡を開いて、目を通そうとするが中身が頭の中に入っていかない。
悶々とした時間が通り過ぎる。
やがて、お盆を抱えたが戻ってきた。
「司馬懿様、お疲れのようでしたから薬湯も用意しました。
二人分なんて、これからお客様がいらっしゃるんですか?」
少女は書卓に湯呑を並べる。
「椅子を持ってこい」
「はーい」
は何の疑いもせず、椅子を書卓の前に置く。
「座れ」
司馬懿は言った。
「え?」
は大きな瞳をさらに大きくする。
「聞こえなかったのか?」
「いえ、はっきり、これ以上ないぐらいに、聞こえました!」
「同じ台詞を言うのは嫌いだ」
「知っています。
司馬懿様は凡愚が嫌いなのは、よーく知っています。
私、この椅子に座っちゃって良いんですか?」
「今日は特別だ」
青年は立ちあがり、書棚の片隅に置かれた小さな紙袋を持ってくる。
竹簡を片づけて小さな紙袋を少女の前に置いた。
「司馬懿様、もしかしてホワイトデーですか?」
の声は震えていた。
「あいにくと手作りではないがな」
青年は小さな紙袋を開ける。
そこには星をかたどったような金平糖が詰まった瓶が入っていた。
司馬懿は座り、薬湯に口をつけた。
体には良さそうな味がした。
「これ。私が頂いちゃって良いんですか?」
「気に入らないか?」
「今日、貰った中で一番嬉しいです!
私、司馬懿様の護衛武将で幸せです!」
そう言った少女の瞳は、ほんの少し潤んでいた。
「なら、座って食べろ。
せっかくのお茶が冷めるぞ」
司馬懿は言った。
「はい!」
は目をこすると、椅子に座って、瓶のふたを開けた。
小さな手が金平糖を一粒、取り出す。
口に運ぶ。
すると、少女の顔に笑顔が広がった。
「甘いです」
弾んだ声が言った。
「苦かったら困りものだからな」
司馬懿は薬湯を飲みきった。
手足が温まった気がした。
頭の回転も戻ってきたようだ。
これなら午前中の仕事も、いつものように片づけられるだろう。
バレンタインデーのお返しに悩み続けて寝不足だったのが、解消された。
「司馬懿様、ありがとうございます!」
は満面の笑みで言った。
ここ数日の苦悩が報われたような気がした。
策によっては、捨て駒にすることもある護衛武将の笑顔ひとつに救われた気がするのは何故だろう。
司馬懿はお茶をすする。
少女が喜んだ理由も、青年が思い悩んだ理由も、まだ答えは出ない。
いずれ時が来れば、二人の間にある感情の名前を知ることになる。