目覚め


 どんな夜を過ごしても、必ず朝はやってくる。
 希望も夢も願いもひっくるめて、何も決まっていない未来がやってくるのだ。
 少女はあたたかな眠りから、ゆっくりと目を覚ました。
 部屋には、薬と墨と蝋燭の溶けた匂いが混じった、気だるくなるような香りが沈んでいた。
 鳥の鳴き交わす声に目を覚ましたには、そんなものは関係なくパッと起き上がる。
 まあ、慣れの問題でもある。
 どれだけ良い雰囲気の寝室であっても、二度寝をするかどうかはまた別の話というものである。
 音を立てないようにするりと寝台から降りようとして、違和感。
 後ろに引っ張られるような感覚に、は振り返った。
 絹の衣、正確には帯がピンと布団まで張っている。
 当然ながら、布団の中には三國一短気な軍師が寝ている。
 ちょっとでも力を入れたら、絹の衣はぴりりっと破れそうな感じがしそうな気がする。
 少女は眉をひそめた。

 これはもしや。
 実力行使というヤツでしょうか。
 もったいなくてできない、というような。
 ひどいです! 司馬懿様。

 少女は思った。
 ちなみに「もったいなくて」に掛かるのは、「絹の衣が破れたら」のほうで、司馬懿のほうではない。

 推定五千人ぐらいいるかもしれない司馬懿様ファンの皆さん、ゴメンナサイです。
 でも、これは羨ましい状態じゃないと思います。

「失礼します〜」

 は布団をめくる。
 やはり帯の一部がキッチリと司馬懿の体の下に敷かれている。
 色っぽいというよりも執念が感じられる敷かれっぷりである。
 敷布団だと言われているような感じである。
「えーっと」
 は首を傾げる。
 帯が許す――衣が破れないであろうという予測できる範囲で、少女はくるくると歩き出す。
「一、私の寝相が悪かったせいで、こんなことになってしまった。
 二、実は、私がそこに布が広がっちゃうように寝る前にセットしておいた。
 三、司馬懿様は偶然、私の衣を巻き込んでしまった。
 えーっと、あとは?」
「四、あえて衣を敷いて寝た」
「あ、そうなんですか?
 って!!!!
 いつの間に起きちゃったんですか!?」
 声のした方向に、は体ごと向き直る。
「これだけ騒がれれば目も覚める。
 朝からどこへ行くつもりだ? 馬鹿め」
 司馬懿は体の下から衣を引き抜いた。
「おはようございます、司馬懿様」
 は寝台の上で姿勢を正すと、ペコリとお辞儀をした。
「毎朝、毎朝。
 こんな朝早くからどこへ行くつもりだ?」
 朝の挨拶の代わりに小言が返ってきた。

 うわぁー、司馬懿様、機嫌悪いーー。
 いつもよりも、起きるの早いから、機嫌の悪さに磨きがかかっていますー。
 ……ど、どうしよう。

「慣れって怖いですね!
 鍛錬していた時間に起きちゃうだけです。
 ……もう必要……なくなっちゃったんですけど」

 う、うっかり、自分で自分の傷を抉ってしまいました。
 どうして言っちゃったんだろ。
 とにかく、司馬懿様が納得する言い訳をしなきゃ!

「でも、その!
 二度寝もできなくって、散歩してるんですけど」
「その格好でか?」
「ま、まさか!
 璃さんに怒られちゃいますよ!!
 ちゃんと上着を着て、こっちの奥のほうのお庭を1周してくるだけで」

 怒られるようなことはして……ない。
 してないよね、私!?
 やっぱり司馬懿様に許可を取ってなかったから、悪かったのかな?
 璃さんは大丈夫って言ってたんだけど。
 そもそも璃さんは司馬懿様が怒っても気にしない人だよね。
 だから……。

「1周もしてくるのか?
 朝から元気だな」
 司馬懿は眉間に皺を寄せる。
「で、私の起きる時間に司馬懿様を起こしちゃ、申し訳ないので。
 いつもは、もっとこっそりと」
「帰ってくるときは、こっそりとしていないようだがな」
 青年は寝台から上体を起こす。
 二度寝する気はない、ということだった。
「……スミマセン。司馬懿様、起きちゃいますよね。
 司馬懿様が起きる前に、戻ってくるのが理想なんですけど」
 はためいきをついた。
「画餅だな」
「あ、殿の作った言葉ですよね!
 そんなにお餅が好きなら、甄姫様におっしゃれば良いのに。
 きっと、たくさんお餅を作ってもらえますよね!」
 は言った。
 『絵に描いた餅は食べられない』とは『役には立たない』という意味だが、おっちょこちょいの少女は額面どおりに受け取っている。
 それを今まで否定してこなかった周囲の責任はゼロではないだろう。
 が、しかし丁寧に説明をしてくれるような人物は、この場にはいなかった。
「だれが、今そんな話をしていた?」
「あれ?
 あ……スミマセン、言い訳の途中でした!!
 司馬懿様、朝ご飯の時間まで一緒に散歩しますか?」
「もう一度言ってもらおうか?」
「え、は……!
 朝日なんて浴びたら、司馬懿様は灰になっちゃいますよね!」
 慌てては言った。
「誰が灰になるか!!」
 さすがに、司馬懿も怒鳴った。
 朝から元気なのは、能天気な少女だけではないようだった。
「比喩ですよ!
 朝の司馬懿様だって見たことあります、私!!
 じゃなくって、朝から動くの嫌ですよね。
 私は散歩してくるので、司馬懿様は書類でも見ていてください。
 ってこれじゃ、命令になっちゃう。
 えーっと」
 少女は首を傾げる。
「気を使いきれていないぞ」
「自分でもわかっています!
 司馬懿様は好きに過ごしていてください。って言いたいんです。
 私は散歩に行っちゃいますけど」
「お前が散歩に行くのは決定なのか」
「だ、ダメでしたか?
 ダメですよね。そうでした、ここは司馬懿様のお邸です。
 そして私は司馬懿様のこ……」
 おしゃべりな少女の口がぴたりと止まる。
「続きはどうした?」
「こん、婚……や、く……。こ」

 恥ずかしがることじゃないとわかっているのだけれど。
 意識をすればするほど、言えなくなっちゃう。
 きっと、そういう性質の悪い病気にかかっちゃったんだ。

「お前は私の婚約者だ」
 司馬懿はそういうと、の額にくちづけた。
 青年はさっと立ち上がる。
 寝台に残された少女は、自分の額に手を重ねて、うつむく。

 ……!!!!!
 こ、こ、婚約者だから。
 でも、これって、恥ずかしい!!

 司馬懿は扉に向かって声をかける。
「璃、支度を手伝え。
 朝餉の前に散策をする」
「かしこまりました」
 笑いをかみ殺したような声が扉の向こうから返ってくる。
「え、璃さん、いつの間に!!」
 は驚く。
「誰かしら控えている。
 そういう生活に、早く慣れるんだな」
 司馬懿は言った。
「だって!! 毎朝、散歩に出てもいないですよ!!」
「人目につかないのも、すぐれた侍女の条件のひとつだ」
「……覚えておきます」
 自己嫌悪と羞恥で耳まで真っ赤になった少女は、うなずいた。


   ◇◆◇◆◇


 小さな背中を探す朝は辛い。
 見捨てたあの日の黒い瞳を思い出す。
 二度と胸の痛むような想いに囚われたくない。
 せめて今だけは――。

 青年の想いは胸に秘められたまま、語られることはなかった。
 だから、少女が気がつくこともなかった……。

 近づけば近づくほど孤独を感じる二人の距離は、まだまだ埋まらない。

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