雪の日


 屋根があるだけの渡り廊下。
 豪奢な欄干越しに、庭院を楽しめるような造りとなっている。
 桃源郷だ、と誰かが言っていたが、足早に廊下を渡る青年には、どうでも良かった。
 廃墟だろうと、楽園だろうと。
 司馬懿には、心底、どうでも良かった。
 ここにしかいられないのだ。
 逃げるような場所もない。
 行きたい場所もない。
 うつろに存在しているだけだった。

「司馬懿様」

 青年は眉をひそめた。
 背後を落ち着きなくついてくる護衛武将の呼びかけは、いつもと異なっていた。
 今とは対極の季節に見ることができる太陽のような、無駄に明るく、迷惑なほど暑苦しい声ではなかった。
 そっと、掻き消えてしまうような。
 細く小さな声だった。
 青年は振り返った。
 小柄な少女は、司馬懿を見ていなかった。
 司馬懿唯一の護衛武将と他者からも目される少女が、見ていたのは庭院だった。
「雪です」
 降り続く雪に、は吸い寄せられているかのように、呟く。
「この間も降っていただろうが」
「でも、司馬懿様と一緒じゃありませんでした」
 ささやくような声は、冷気のように足元から忍び寄ってくる。
「だから、どうした?」
「司馬懿様は雪が嫌いですか?」
 少女は、ようやく青年を見た。
 真っ白な雪は光を拡散して、世界を淡くにじませる。
 それでも、少女の色彩は損なわれない。
 これ以上混ぜることのできない黒い双眸が、ひたっと司馬懿を見上げる。
「私は……嫌いになれません」
 冷たい雪は多くの者の命を奪う、と知っているはずの少女は、泣き出しそうな顔をして、微笑んだ。
「雪は、自然現象の一つだ。
 それ以上でも、それ以下でもない」
 司馬懿は言った。
 寒さは盤上のコマの命と機敏さを奪う。
 雪は行軍を遅らせる。
 良い思い出も特にない。
 雨以上に、厄介な天候だった。
「これだけ綺麗だと、何でも隠してくれそうですね」
 感じたものを、そのまま垂れ流しにしているだけなのだろう。
 話題が飛躍する。
「隠したいものがあるのか?」
 司馬懿は尋ねた。
 は、ゆっくりと頭を横に振った。
「ありません」
 隠し事をした顔で、少女は断言した。
 司馬懿は庭院を一瞥する。
 雪が風に流されながら、降っていた。
 庭院は、確かに「色」を隠されていた。
 痛くなるような、真っ白な世界が続いていた。
「綺麗な雪です。
 足あとをつけるのがもったいないぐらいです」
 楽しさを微塵も感じられない様子で、が言う。
「つけたいなら、つけてくれば良かろう。
 私は、部屋に戻るがな」
 調子を狂わせられた青年は、ためいきをついた。
 それも、白い。
 雪の一部になってしまったように、白かった。
「綺麗だから、つけられません」
 は微笑んでから、司馬懿を仰いだ。
 雪よりもしっかりとした色をまとう少女だというのに。
 何故だろうか。
 ……そう、少女が言ったように。
 雪に隠されてしまいそうだ、と司馬懿は思った。
「ならば、もう充分だろう」
 青年は歩き出した。
 半拍遅れて、軽い足音もついてくる。
 晴れの日に聞くほど、楽しげではない。
 曇りの日に聞くほど、明るくはない。
 雨の日に聞くほど、うっとおしくはない。

 おそらく、雪の日にしか聞けない。

 そんな寂しげな足音を少女は、石床と奏でる。
 司馬懿は、ますます雪が嫌いになった――。

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