「8月5日」編 06年版


 ミンミンゼミが元気な夏の真っ盛り。
 思わず井戸の中に飛び込みたくなるような暑さ。
 ジリジリと焦げつかせる真夏の太陽。
 茹で上がりそうな熱気の中、司馬懿唯一の護衛武将はぼんやりとしていた。
 比較的どこにいても幸せになれる人種だ。
 は、もちろん夏の暑さを最大限に堪能していた。
 廊下の欄干に腰をかけ、シャリシャリとカキ氷なんかを食べている。
 透明な氷の上に、真っ赤な苺ソース。
 汗をダラダラかくぐらいに暑いからこそ、カキ氷は美味しい。
 夏にしか味わえない贅沢というものだった。
 おしゃべりな護衛武将は無心にスプーンを動かす。
 食べることに集中して、無言だった。

 シャリシャリ
 シャクシャク

 ミンミンゼミの大合唱の中、氷を食べる音が続く。
 何せこの暑さだ。
 廊下にも、院子にも、人っ子一人いない。
 いるのは小柄な少女とミンミンゼミだけだ。

 シャリシャリ
 シャクシャク

 ガラスの器の底が見え始めた頃だった。
 カツカツと廊下が鳴る。
 はスプーンを口にくわえたまま、音のほうを見る。
 弓兵の習い性。
 むしろ、職業病。
 わずかな音にでも反応する。
 そして、敵か味方か瞬時に判断する。
 曲がり角から曹魏の主たちがやってきた。
 無風状態の廊下を泳ぐように歩いてくる。
 曹丕の重そうなマントが風をはらみ、甄姫の裾もまた風に流れる。
 実に、絵になる夫婦であった。

 暑そう〜。

 のんきな少女が思ったことは、こんなことだった。
「あら、
 こんなところで何をしているの?」
 甄姫は言った。
「あ、甄姫様。
 こんにちは〜」
 スプーンを口から離し、はニコッと笑った。
 さりげなく無視された人間が一名。
 しかし、会話は続くのだった。
はいつでも元気ね」
 甄姫は微笑む。
「はい、それぐらいしか取り得がありませんから!」
「こんなところにいても良いのかしら?」
「へっ?」
「こうしている間にも、司馬懿殿は……」
 甄姫は意味深なところで言葉を区切ると、ふと顔を背ける。
 ミンミンゼミしかいない院子を見つめる。
「司馬懿様に何かあったんですか!?」
 は言った。
「もう手遅れかもしれぬな」
 ボソリっと曹丕はつぶやく。
 普段からやや聞き取りづらい声で話す人間だが、このときもやはりボソボソ喋りだった。
 けれども、内容が内容だった。
 は聞き落としたりはしなかった。
「司馬懿様はどこですかっ!」
 皇帝の胸倉をつかみかねない勢いで、少女は尋ねる。
 お給料をくれてるのは紛れもなく目の前の青年だが、お給料の査定をしているのは直属の上官である司馬懿だ。
 司馬懿に何か起きれば一蓮托生……ではなく、運命共同体……でもなく、とりあえず大問題だった。
 今さら他の武将の下へ飛ばされても困る。
「私室だが、果たして話す気力が残っているのか、どうか。
 棺おけを用意したほうが良いような様子だったな」
 曹丕は不吉なことを平然と言う。
「急いだほうが良いわ」
 甄姫はささやくように言った。
 事態の深刻さを物語るような口調に、は困惑する。
「はいっ!」
 は溶けて苺ジュースになってしまったカキ氷が入った器とスプーンを曹丕に押しつけ、走り出した。

   ◇◆◇◆◇

 司馬懿様、どうしちゃったんだろう?
 いつも何かしらあるけど……!
 甄姫様や殿の言い方、まるで……あれじゃ。

 はそこで思考を中断した。
 これ以上、考えてはいけない。
 それはとても不吉で、とても悲しいことだ。
 永遠なんて調子の良いものは、どこにもないことを知っている。
 ずっと、なんて存在しない。
 人は生まれてきて、やがて…………。
 は立ち止まる。
 急がなければならないはずなのに、足が動かなくなった。
 何故か、進めなくなった。
 司馬懿の私室の場所はわかってる。
 でも、そこへ行ってはいけないような気がするのだ。

 今朝の司馬懿様、いつもよりも顔色が悪かった。
 どうして、離れちゃったんだろう。
 一緒にいれば、こんなことにならなかったのかなぁ?
 司馬懿様。
 ……手遅れって、殿が言ってた。

。こんなところでどうしたのですか?」
 曹魏の胡蝶こと、張コウが向こうからやってきた。
 ちょうど司馬懿の私室の方向から。
 その後ろには、夏侯淵もいる。
「儁艾様、妙才様、こんにちは」
 は笑顔を浮かべ言った。
「司馬懿殿のとこへ行くのか?
 急いだほうが良いと思うぞ。
 あれじゃあ……」
 夏侯淵は、あごをなでながら言う。
「ええ。あなたの顔を見れば、きっと司馬懿殿も元気になるはずです。
 の笑顔は、太陽のようなもの!
 光り輝く様は誰もが憧れを感じずにはいられません。
 司馬懿殿にも、その元気が分け与えられるはずです!」
 張コウは華麗で、典雅なポーズをいくつかとりながら、力説する。
「司馬懿様、そんなに具合が……悪いんですか?」
 は服の裾をギュッとつかんだ。
 心臓がバクバクして、不安で心がいっぱいになる。
「まあ、良くはないやな。
 あの調子じゃ……そう長くは持たないだろな」
 夏侯淵は隠さずに言う。
「さあ、
 急ぐのです!
 風の女神があなたに羽を与えくださるでしょう〜!
 飛ぶように駆けていきなさい」
 張コウはの背を押す。
 再び、少女は走り出した。
 真っ直ぐに、司馬懿の元へと。


 見慣れた部屋を駆け抜け、仮眠用の部屋へと進む。
 いつもよりも薄暗いその部屋は、墨の変わりに薬の匂いがした。
 調合された薬の煙が、ゆるやかに波紋のように宙に広がる。
 の体を避け、寝台を取り囲む薬の煙。
 まるで煙たちは、を毛嫌いするようだった。
 少女は上官の枕元に立つ。
「司馬懿様!
 死んじゃダメです!」
 寝台を取り囲む天蓋の紗を押しのけ、は叫んだ。
 横たわる司馬懿は無反応だった。
 真っ白な顔をして、ただ横たわっていた。
「司馬懿様!」
 は青年の体をゆする。
 ふいにふれた手は、まるで氷のように冷たかった。
 生きた人間のものとは思えないほど……。
 悲鳴を上げそうになり、は口を慌てて閉じる。
 少女の頭をいくつもの言葉がグルグルと回る。
「司馬懿様。死んじゃダメですっ!
 私を置いていかないでください!!」
 は言う。
 上官に先立たれる護衛武将ほど、辛いものはない。
 自分の命よりも上官は大切だ、と護衛武将になるときに教えられる。
 護衛武将が先に死ぬのは、当然なのだ。
 その逆は、あってはならない。
 あってはならないことがの目の前で起きていた。
「司馬懿様っ!」
 声の限りで、少女は呼ぶ。
 呼び続ければ、返事が返ってくる。
 きっと返事が……。
「司馬懿様が死んじゃったら、私、どうすればいいんですかっ!?
 返事をしてください……っ!!」
 は司馬懿の体をゆすり続ける。


「うるさい。
 ……耳元で騒ぐな」

「えっ……?
 あれ、司馬懿様、死んでない」
 は目をパチパチと瞬かせ、それから上官の顔を見た。
 司馬懿は緩慢な動きで、上体を起こす。
 ふらふらというより、よろよろといった動きだった。
 明らかに、具合の悪い病人の所作だった。
 が、少女の顔には喜びが広がる。
「死んで欲しかったのか?」
 冬の太陽の光を閉じ込めたような双眸は、不機嫌に言う。
「いえ、全然!」
 少女はニコッと笑った。
「それで、今度は何があったんだ?
 見舞いにかこつけて、誰も彼も仕事を増やしてくれる。
 半日ぐらい大人しくできないのか。
 まったく知恵の回らない者たちばかりだ」
 青年は、肩にかかる髪を邪魔そうに背に流した。
 司馬懿は、真夏でも装いを変えない、頑固を通り越して変人なタイプである。
 それが今は、病人らしく軽い感じの衣を数枚まとい、首元をくつろげていた。
 珍しい光景に、は困惑した。

 あれっ?
 何だかドキドキする……。
 司馬懿様が元気で、嬉しくって。
 でも、何だろう?
 さっきと違って……。

「それで何の用だ?」
「え……?
 あっ、その……。
 お庭が見えるところでカキ氷を食べていたんです。
 そしたら、甄姫様と殿が来て……。
 司馬懿様が手遅れかもしれないって。
 だから、私。
 急いできたんです」
 はしどろもどろに答える。
 何故、ドキドキしたのか。
 それを考える時間は奪われ、少女の興味は完全に逸れた。
「また遊ばれたのか。
 ただの夏ばてだ」
 青年は大仰にためいきをつく。
「……夏ばて?」
 少女はオウムのようにくりかえす。
 先ほど死体と勘違いした冷たい手がの頬をなでる。
 ……生きている。
 そのことがとても嬉しかった。
「愚か者なりに、心配したのか」
 青年は皮肉げに笑う。
「司馬懿様の手って冷たいですね」
 は思ったことを口にする。
「お前の体温が高すぎるだけだろう」
 司馬懿は淡々と言った。
「あ、そうかもしれませんね。
 それで、司馬懿様はただの夏ばてなんですね!
 もっと大変なことになっていたら、どうしようかと思いました」
 はニコッと笑った。

 そんな日は永遠に来なくていい。
 ずっと、ずっと先でいい。
 自分が死んで、そのもっと先がいい。

 少女は願う。
 8月5日は、こうして過ぎていくのだった。
 来年も、再来年も。
 もっと遠い先までも。

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