今日も司馬懿の唯一の護衛武将・は元気に現金に生きていた。
小柄な少女は、長い髪を揺らしながら、回廊を急ぐ。
司馬懿にお使いに出されたのだ。
書生がやるような仕事だが、司馬懿の元では下官すらいつかない。
いつの間にやら、護衛武将の少女がその手の仕事を引き受けることとなった。
三国一顔色の悪い上に、冷淡な軍師殿の、護衛武将いびりの一環なのだけれど、明るい少女はこの手の仕事が大好きだった。
何せ、戦場へ行かなくてもお給金をもらえるのだ。
楽して稼ぐことばかりを考えている小娘には、ちょうど良い仕事だったのだ。
「仲達の護衛武将よ」
そんな呼びかけをするのは、ただ一人。
曹魏の馬鹿殿……もとい、主。
偉大なる皇帝陛下だけだ。
「あ、殿。
おはようございます!」
は立ち止まる。
視界の端に、上官以上に悪役、むしろ黒幕のような顔つきの主君がいたのは、気がついていた。
が、てっきり日向ぼっこでもしているのだと思っていたのだ。
「ちょうど良いところにいた。
こちらへ来い」
曹丕は尊大に言う。
は抱えた竹簡を見つめる。
……お使いの途中なんだけど。
司馬懿様に、怒られちゃうよね。
殿と遊んでいる暇はないから、ちょっと悪いけど……。
「美味しい桃がある」
「行きます!」
少女は間髪入れずに返事をした。
◇◆◇◆◇
「というわけだ」
曹丕は書斎で、とうとうと説明をする。
は白桃の皮をむくのに必死で、あまり話を聞いていなかった。
桃って良い匂い。
甘くて、胸がいっぱいになりそう〜。
これ、すっごく美味しいよね。
う〜ん。
汁気もたっぷり♪
「残りの桃をやろう」
「え、本当ですか!?」
は顔を輝かせた。
書卓の上の竹かごには、桃が5つも入っていた。
一つが両手で包むほどのサイズがあるから、なかなか食べ甲斐がある。
「引き受けてくれるな」
「はい、もちろんですっ!
……って何をですか?」
「これを仲達に書かせろ。
お前なら、必ずや成し遂げられるだろう」
曹丕は竹かごの中に細長い紙を入れる。
藍か何かで染めたのだろう。
ほんのり水色の紙だった。
「そうだな。お前の分も入れておいてやろう」
曹丕は、若草色の紙を追加する。
は食べかけの白桃を皿に戻して、手巾で手をぬぐう。
それから、若草色の紙にふれる。
「これ、何ですか?」
少女は小首をかしげる。
「何でも願いが叶う紙だ」
魏の皇帝は自信たっぷりに言い放った。
その背後には巨大な竹が一本ある。
竹には、キレイな紙の飾りがいくつも吊るされている。
よく見れば、が手にしている紙と同じ大きさの紙が何枚かあった。
何だろ。これ。
えーっと……。
は竹に吊るされている紙にふれる。
寒村出身の少女は、この当時の平均的な庶民同様、学がなかった。
読める文字はかなり少ない。
むしろ、都へ来たばかりの頃は、自分の名前すら書けなかった。
それを司馬懿が根気強く道具の使い方を教え、文字を教えた。
がとりあえず読めた紙には
『腹いっぱい食べたいだぁ』
『今年こそ、恋人がほしいでござる』
『武の極み!』
などと書いてあった。
「これ、何ですか?」
は同じフレーズを口にした。
「何でも願いが叶う紙だ」
曹丕も同じフレーズを口にする。
まあ、いっかぁ。
桃もらっちゃったし。
とにかく司馬懿様に、この紙を書いてもらえば良いんだよね。
「わかりました。
書いてもらったら、殿のところへ持ってくれば良いんですか?」
「そうだ。
思ったよりも賢いな。仲達の護衛武将よ」
曹丕は言った。
◇◆◇◆◇
「司馬懿様〜、司馬懿様」
は竹かごを両手で抱え、司馬懿の書斎に入る。
仕事が一段落したのか、青年は書棚を物色していた。
嫌になるぐらい竹簡の山を見ているのに、手が空いたときまで竹簡を読む。
少女には不思議でしかたがないが、軍師という生き物はそういうものなのかもしれない。
と、変な納得をしていた。
「殿から頼まれてきたんですけど」
は用件を切り出す。
司馬懿は迷惑そうにを見下ろす。
冬の太陽の光を集めたような色の双眸がの顔と竹かごを往復した。
「?」
「懐柔されたか」
「桃、食べますか?」
頭に疑問符をつけたまま、は竹かごを差し上げる。
「さぞや、美味であったのだろうな」
「へ?」
「次からは口もぬぐうんだな。
桃の香りがする」
司馬懿はためいき混じりに、手巾を取り出し、の口を拭く。
布は、とてもすべすべとして、柔らかく、気持ちが良かった。
洗濯のとき一工夫がされているのか、かすかに良い香りがした。
あれ?
食べ終わった後、手はちゃんと拭いたんだけどなぁ。
忘れちゃった……みたい。
子どもみたいなことしちゃった。
次からは気をつけなきゃ。
「ありがとうございます。
司馬懿様は、桃が嫌いですか?」
はピントのずれたことを尋ねる。
「むくのが面倒だ」
「じゃあ、むいてあげます!
桃の皮をむくの、得意なんですよ♪」
はニコッと笑う。
「それで使いは終わったのか?」
司馬懿は表情ひとつ変えずに質問をする。
「……あっ!
今から行ってきます!!」
本来の目的を思い出し、は竹かごを卓の上に置いた。
数分後。
最初の用事を済まして、は司馬懿の書斎に戻ってきた。
司馬懿は卓につき、色つきの紙とにらみ合いをしていた。
「どうしたんですか? 司馬懿様」
「これは何だ?」
水色の紙と若草色の紙を卓に置く。
「あ。殿から頼まれたんです。
こっちが司馬懿様の分です」
は、水色の紙を青年のほうへ差しやる。
「とにかく司馬懿様が何か書けばいいみたいです。
それで桃、食べますか?
お皿とお箸もらってきたんですけど」
は台所から貸してもらってきた食器を見せる。
どの桃が一番、美味しいかなぁ。
うーんっと。
これかなぁ。
色もキレイに回ってるし、茶色くなってるとこもないし。
「何でも願いが叶う、か」
司馬懿は水色の紙をもてあそぶ。
「よくご存知ですね。
あ、墨すったほうがいいですか?
食べるのと、書くの、どっち先にしますか?」
は尋ねる。
「今朝から騒いでいたな」
司馬懿は興味が失せたように、紙を卓に戻す。
それが答えだった。
「何でも願いが叶うって、素敵ですよね。
どんなお願いにするか、悩んじゃいますよね〜」
は長椅子に腰かけると、白桃をむき始める。
淡い黄色から紅色の染まる皮を、途中で切れないようむく。
爪を立ててしまうと味が落ちるので、慎重に手早く。
産毛がしゃりしゃりする皮から、瑞々しい実が出てくる。
「こんな紙切れで叶う願いなど高が知れている」
青年はつぶやいた。
少女の耳には、意外な響きを持って聞こえた。
「……司馬懿様には叶えたい願いがあるんですか?」
手を止め、は司馬懿を見た。
卓にひじをつく上官は、いつもどおりだった。
無駄に顔色が悪く、無駄に悪役面だった。
「ない」
司馬懿は断言した。
「でも、何か書いておいてくださいね。
そうしないと、殿が泣いちゃいますよ。
それに桃、もらっちゃったんですから」
は皮むきを再開する。
「もらってきたのはお前だろう」
「うっ。
で、でもですね。
ほら、殿の命令なんだから、どっちにしろやらなきゃダメです!
司馬懿様、クビになっちゃいますよ〜」
「それも面白いな」
司馬懿は皮肉げに言う。
「面白くありません〜。
司馬懿様がクビになっちゃったら、私はどうすればいいんですかぁ」
「他の武将の下へ行けばよいだろう。
護衛武将が多くて困ることはない」
青年は淡々と本当のことを言う。
それがあまりに冷たくて、は口を尖らせる。
「私は嫌です。
司馬懿様の護衛武将、が気に入ってるんですから。
第一、司馬懿様の護衛武将じゃなくなったら、殿だって困ります。
未だに『仲達の護衛武将』って呼ばれてるんですよ」
はむき終わった桃を小刀で、一口サイズに切り分ける。
膝に載せた皿の上に、白い実が落ちていく。
「それに……きっと、みんな悲しくなっちゃいます。
司馬懿様が曹魏からいなくなっちゃったら。
私も、…………」
少女は口をつぐむ。
モヤモヤして、悲しくなる。
……泣きたくなってきた。
司馬懿様にとって、私はただの護衛武将で……しかもあまり役に立ってないし。
だから、別に何ともないんだけど。
私は、司馬懿様以外の武将に仕えるなんて、想像できない。
でも司馬懿様がクビになっちゃったら、私どうするんだろう。
お金、稼がなきゃいけなんだけど。
他の人のところで働くの……?
「そこまで想像が飛躍するのも、才能だな。
短冊を書かなかったから、解雇とは。
曹魏の主は、そこまで馬鹿ではあるまいよ」
司馬懿は言った。
は立ち上がり、卓の上に皿を載せる。
ちゃんと青年の前に、箸を揃えてから置く。
「本当ですか?」
少女は確認する。
「では念には念を入れるとしよう」
司馬懿は筆を持つ。
残り少ない墨を硯から取ると、水色の紙に書きつけた。
『平穏(変わったこともなく、穏やかであること)』
かすれた文字は、には覚えのない言葉だった。
「これ、どういう意味ですか?」
「今日と同じ、ということだ」
司馬懿は薄く笑った。
「素敵な言葉ですね!
私も願い事、これにしようかなぁ」
は満面の笑みを浮かべた。
「好きにしろ」
司馬懿は筆の代わりに、箸を手にした。