「7月7日」編 06年版


 今日も司馬懿の唯一の護衛武将・は元気に現金に生きていた。
 小柄な少女は、長い髪を揺らしながら、回廊を急ぐ。
 司馬懿にお使いに出されたのだ。
 書生がやるような仕事だが、司馬懿の元では下官すらいつかない。
 いつの間にやら、護衛武将の少女がその手の仕事を引き受けることとなった。
 三国一顔色の悪い上に、冷淡な軍師殿の、護衛武将いびりの一環なのだけれど、明るい少女はこの手の仕事が大好きだった。
 何せ、戦場へ行かなくてもお給金をもらえるのだ。
 楽して稼ぐことばかりを考えている小娘には、ちょうど良い仕事だったのだ。

「仲達の護衛武将よ」
 そんな呼びかけをするのは、ただ一人。
 曹魏の馬鹿殿……もとい、主。
 偉大なる皇帝陛下だけだ。
「あ、殿。
 おはようございます!」
 は立ち止まる。
 視界の端に、上官以上に悪役、むしろ黒幕のような顔つきの主君がいたのは、気がついていた。
 が、てっきり日向ぼっこでもしているのだと思っていたのだ。
「ちょうど良いところにいた。
 こちらへ来い」
 曹丕は尊大に言う。
 は抱えた竹簡を見つめる。

 ……お使いの途中なんだけど。
 司馬懿様に、怒られちゃうよね。
 殿と遊んでいる暇はないから、ちょっと悪いけど……。

「美味しい桃がある」
「行きます!」
 少女は間髪入れずに返事をした。

    ◇◆◇◆◇

「というわけだ」
 曹丕は書斎で、とうとうと説明をする。
 は白桃の皮をむくのに必死で、あまり話を聞いていなかった。

 桃って良い匂い。
 甘くて、胸がいっぱいになりそう〜。
 これ、すっごく美味しいよね。
 う〜ん。
 汁気もたっぷり♪

「残りの桃をやろう」
「え、本当ですか!?」
 は顔を輝かせた。
 書卓の上の竹かごには、桃が5つも入っていた。
 一つが両手で包むほどのサイズがあるから、なかなか食べ甲斐がある。
「引き受けてくれるな」
「はい、もちろんですっ!
 ……って何をですか?」
「これを仲達に書かせろ。
 お前なら、必ずや成し遂げられるだろう」
 曹丕は竹かごの中に細長い紙を入れる。
 藍か何かで染めたのだろう。
 ほんのり水色の紙だった。
「そうだな。お前の分も入れておいてやろう」
 曹丕は、若草色の紙を追加する。
 は食べかけの白桃を皿に戻して、手巾で手をぬぐう。
 それから、若草色の紙にふれる。
「これ、何ですか?」
 少女は小首をかしげる。
「何でも願いが叶う紙だ」
 魏の皇帝は自信たっぷりに言い放った。
 その背後には巨大な竹が一本ある。
 竹には、キレイな紙の飾りがいくつも吊るされている。
 よく見れば、が手にしている紙と同じ大きさの紙が何枚かあった。

 何だろ。これ。
 えーっと……。

 は竹に吊るされている紙にふれる。
 寒村出身の少女は、この当時の平均的な庶民同様、学がなかった。
 読める文字はかなり少ない。
 むしろ、都へ来たばかりの頃は、自分の名前すら書けなかった。
 それを司馬懿が根気強く道具の使い方を教え、文字を教えた。
 がとりあえず読めた紙には

『腹いっぱい食べたいだぁ』
『今年こそ、恋人がほしいでござる』
『武の極み!』

 などと書いてあった。
「これ、何ですか?」
 は同じフレーズを口にした。
「何でも願いが叶う紙だ」
 曹丕も同じフレーズを口にする。

 まあ、いっかぁ。
 桃もらっちゃったし。
 とにかく司馬懿様に、この紙を書いてもらえば良いんだよね。

「わかりました。
 書いてもらったら、殿のところへ持ってくれば良いんですか?」
「そうだ。
 思ったよりも賢いな。仲達の護衛武将よ」
 曹丕は言った。

    ◇◆◇◆◇

「司馬懿様〜、司馬懿様」
 は竹かごを両手で抱え、司馬懿の書斎に入る。
 仕事が一段落したのか、青年は書棚を物色していた。
 嫌になるぐらい竹簡の山を見ているのに、手が空いたときまで竹簡を読む。
 少女には不思議でしかたがないが、軍師という生き物はそういうものなのかもしれない。
 と、変な納得をしていた。
「殿から頼まれてきたんですけど」
 は用件を切り出す。
 司馬懿は迷惑そうにを見下ろす。
 冬の太陽の光を集めたような色の双眸がの顔と竹かごを往復した。
「?」
「懐柔されたか」
「桃、食べますか?」
 頭に疑問符をつけたまま、は竹かごを差し上げる。
「さぞや、美味であったのだろうな」
「へ?」
「次からは口もぬぐうんだな。
 桃の香りがする」
 司馬懿はためいき混じりに、手巾を取り出し、の口を拭く。
 布は、とてもすべすべとして、柔らかく、気持ちが良かった。
 洗濯のとき一工夫がされているのか、かすかに良い香りがした。

 あれ?
 食べ終わった後、手はちゃんと拭いたんだけどなぁ。
 忘れちゃった……みたい。
 子どもみたいなことしちゃった。
 次からは気をつけなきゃ。

「ありがとうございます。
 司馬懿様は、桃が嫌いですか?」
 はピントのずれたことを尋ねる。
「むくのが面倒だ」
「じゃあ、むいてあげます!
 桃の皮をむくの、得意なんですよ♪」
 はニコッと笑う。
「それで使いは終わったのか?」
 司馬懿は表情ひとつ変えずに質問をする。
「……あっ!
 今から行ってきます!!」
 本来の目的を思い出し、は竹かごを卓の上に置いた。

 数分後。
 最初の用事を済まして、は司馬懿の書斎に戻ってきた。
 司馬懿は卓につき、色つきの紙とにらみ合いをしていた。
「どうしたんですか? 司馬懿様」
「これは何だ?」
 水色の紙と若草色の紙を卓に置く。
「あ。殿から頼まれたんです。
 こっちが司馬懿様の分です」
 は、水色の紙を青年のほうへ差しやる。
「とにかく司馬懿様が何か書けばいいみたいです。
 それで桃、食べますか?
 お皿とお箸もらってきたんですけど」
 は台所から貸してもらってきた食器を見せる。

 どの桃が一番、美味しいかなぁ。
 うーんっと。
 これかなぁ。
 色もキレイに回ってるし、茶色くなってるとこもないし。

「何でも願いが叶う、か」
 司馬懿は水色の紙をもてあそぶ。
「よくご存知ですね。
 あ、墨すったほうがいいですか?
 食べるのと、書くの、どっち先にしますか?」
 は尋ねる。
「今朝から騒いでいたな」
 司馬懿は興味が失せたように、紙を卓に戻す。
 それが答えだった。
「何でも願いが叶うって、素敵ですよね。
 どんなお願いにするか、悩んじゃいますよね〜」
 は長椅子に腰かけると、白桃をむき始める。
 淡い黄色から紅色の染まる皮を、途中で切れないようむく。
 爪を立ててしまうと味が落ちるので、慎重に手早く。
 産毛がしゃりしゃりする皮から、瑞々しい実が出てくる。
「こんな紙切れで叶う願いなど高が知れている」
 青年はつぶやいた。
 少女の耳には、意外な響きを持って聞こえた。
「……司馬懿様には叶えたい願いがあるんですか?」
 手を止め、は司馬懿を見た。
 卓にひじをつく上官は、いつもどおりだった。
 無駄に顔色が悪く、無駄に悪役面だった。
「ない」
 司馬懿は断言した。
「でも、何か書いておいてくださいね。
 そうしないと、殿が泣いちゃいますよ。
 それに桃、もらっちゃったんですから」
 は皮むきを再開する。
「もらってきたのはお前だろう」
「うっ。
 で、でもですね。
 ほら、殿の命令なんだから、どっちにしろやらなきゃダメです!
 司馬懿様、クビになっちゃいますよ〜」
「それも面白いな」
 司馬懿は皮肉げに言う。
「面白くありません〜。
 司馬懿様がクビになっちゃったら、私はどうすればいいんですかぁ」
「他の武将の下へ行けばよいだろう。
 護衛武将が多くて困ることはない」
 青年は淡々と本当のことを言う。
 それがあまりに冷たくて、は口を尖らせる。
「私は嫌です。
 司馬懿様の護衛武将、が気に入ってるんですから。
 第一、司馬懿様の護衛武将じゃなくなったら、殿だって困ります。
 未だに『仲達の護衛武将』って呼ばれてるんですよ」
 はむき終わった桃を小刀で、一口サイズに切り分ける。
 膝に載せた皿の上に、白い実が落ちていく。
「それに……きっと、みんな悲しくなっちゃいます。
 司馬懿様が曹魏からいなくなっちゃったら。
 私も、…………」
 少女は口をつぐむ。

 モヤモヤして、悲しくなる。
 ……泣きたくなってきた。
 司馬懿様にとって、私はただの護衛武将で……しかもあまり役に立ってないし。
 だから、別に何ともないんだけど。
 私は、司馬懿様以外の武将に仕えるなんて、想像できない。
 でも司馬懿様がクビになっちゃったら、私どうするんだろう。
 お金、稼がなきゃいけなんだけど。
 他の人のところで働くの……?

「そこまで想像が飛躍するのも、才能だな。
 短冊を書かなかったから、解雇とは。
 曹魏の主は、そこまで馬鹿ではあるまいよ」
 司馬懿は言った。
 は立ち上がり、卓の上に皿を載せる。
 ちゃんと青年の前に、箸を揃えてから置く。
「本当ですか?」
 少女は確認する。
「では念には念を入れるとしよう」
 司馬懿は筆を持つ。
 残り少ない墨を硯から取ると、水色の紙に書きつけた。

『平穏(変わったこともなく、穏やかであること)』

 かすれた文字は、には覚えのない言葉だった。
「これ、どういう意味ですか?」
「今日と同じ、ということだ」
 司馬懿は薄く笑った。
「素敵な言葉ですね!
 私も願い事、これにしようかなぁ」
 は満面の笑みを浮かべた。
「好きにしろ」
 司馬懿は筆の代わりに、箸を手にした。

>>戻る