最近、思うことがあるんです。
きっと戦続きだから、って思うんです。
一度は訊いたことがあるんです。
二度目はないって、わかってるんです。
それに、欲しい答えは決まってるんです。
だから……私は訊くことができないんです。
◇◆◇◆◇
墨の香りが沈み込むような部屋だった。
部屋の主が書き物をしている音だけが響く。
できるだけ邪魔しないように、は書卓にそっと近づく。
大きな卓の片隅に置かれた水色のおはじきが、ちょっとだけ羨ましかった。
ずっと、そこにいるから。
は司馬懿の左手側にお茶を置く。
利き手側に置くと、事故の元だからだ。
わざわざ取りにくいほうに置くように教えてくれたのは、司馬懿付きの女官の。
今は、ここにいない人。
「何があった?」
「へ?」
「何があった、と訊いているんだ」
いつも不機嫌な曹魏の軍師は、今日も絶好調に不機嫌だった。
もしかすると、普段の三割増かもしれない。
空気が振動しそうな気がするほど、機嫌の悪いオーラを出している。
説得力があるほど、おどろおどろしい空気をこれでもか、と漂わせていた。
弾丸を弾くガラスのような心を持っている人間であっても、今の司馬懿の側にはいたくない。と思うだろう。
もっとも、司馬懿唯一の護衛武将であるには「側にいない」という選択肢は、与えられていない。
青年がどんな状態であっても、側にいなければいけない。
無二という光栄すぎる身分を与えられた護衛武将なのだから。
代わりがいないということは、上官と「ずっと一緒にいる」と約束をしているのと同じこと。
死が二人を分かつ、その時まで。
「えーと、今日ですか?」
は小首をかしげながら、今日あった出来事を振り返る。
「朝はいつもどおりに起きて……鍛錬しました。
的には当たったんですけど、真ん中からズレちゃって……あんまり風がなかったんですけど。
って、は! やっぱり、ど真ん中に射れないとダメですよねっ!!
ちゃんとやってるんですよ!
鍛錬するのは、そんな嫌いじゃないです!
ちゃんと上達してるのがわかるし。
護衛武将は、日々、腕を磨かないといけませんから。あ、これは恵ちゃん先輩の受け売りなんですけど。
今日はたまたまで……こ、こんな日もあるって、みんな言ってって、調子の良くない日って、たまにはあるじゃないですか?
し、司馬懿様は完璧だから、そんなこともないかも……というか、ないでしょうけど。
ほら、私は平凡ですから!
だから……その。
クビにはしませんよね!?」
少女は青年の顔をうかがう。
病気なんじゃないかって疑うぐらいに、白い顔に浮かぶ表情は苛立ち。
この部屋にが入ってきたときと同じ表情。
大きな変化があったようには、思えない。
うっ。
これじゃあ、わからないです。
司馬懿様がクビにするつもりなのか、まったくそんな気がないのか。
全然、わかりません。
「それだけか?」
「え……?
えーっと。その〜。
鍛錬の後は、朝ごはんを食べて、それから司馬懿様の護衛について……。
トラブルは起こしてない。って思ってるんですけど。
何かやっちゃいましたか?」
は困惑した。
真冬のお日さま色した瞳がお茶のほうに向く。
司馬懿は大きなためいきをついて、茶碗を手にした。
「まだ何もしてないな」
青年は不機嫌なまま呟いた後、茶碗に口をつけた。
喉を潤すために、茶を口に運んだ……だけ。
けれども、その鋭い双眸が和んだのをは見逃さなかった。
お茶は上手に淹れられたらしい。
「良かった〜。
あ、えっと。
これからも、何もやるつもりはないんですけど!」
慌てて少女は言った。
「当然だ」
司馬懿は言う。
「は、はい!」
「質問を変える。
何か、言いたいことがあるなら、言え」
「え、それって質問じゃないですよ!
命令じゃないですか。って。
あの! 司馬懿様に逆らうつもりなんて、これっぽっちもなくって。
今のは、ちょっと口が滑って……あれぇ〜?
ホントにそんなつもりじゃないんです!
信じてくださいっ!!」
「私は気が長いほうではない」
「そんなのは、お城中の人間が知ってますよ。
司馬懿様は三国一キレやすい軍師だって。
だから、みんな避けてるじゃないですかぁ〜。
今日みたいな司馬懿様って、取り扱い注意みたいな爆弾とそっく……!
す、スミマセン!! ゴメンナサイ!!
余計なことですよね、あはは〜」
はお茶を載せてきたお盆を抱えなおす。
「あの、私。
ほら、思ったこと、何でも言っちゃうじゃないですか。
だから、言いたいことも全部、言っちゃってるっていうか。
司馬懿様に嘘なんてついていませんよ」
少女は困ったように微笑んだ。
「盆を出せ」
「あ、はい」
は盆を司馬懿の目の高さに差し出した。
そこに空になった茶碗が置かれた。
コトンっと載せられた陶磁器は、とても頼りげない。
簡単に壊れてしまうような気がして、はすこしだけ不安になる。
「退っていい。
必要になったら呼ぶ」
司馬懿は書きかけの奏上に視線を戻した。
「……わかりました」
はうなずく。
必要になったら。
今の私は、……必要じゃない。
「すぐに呼んでくださいね」
「当然だ」
「じゃあ、失礼します」
青年は見ていないと知っていたが、少女は丁寧に頭を下げる。
視界を掠めた水色のおはじきが羨ましくなる。
最近、思うことがあるんです。
ずっと一緒にいられるって、きっと幸せなことなんだと思います。
たとえ、それが私の命がつきる日まで、ってことだって、わかっていても。
私が死んだら……たまには思い出してくれますか?
忙しいから、忘れちゃいますよね。
だから、答えはいりません。
欲しいけど、いりません。
◇◆◇◆◇
司馬懿は手を止めた。
追い払ったばかりの護衛武将のことを考える。
「嘘は言わなくとも」
卓の上にある弾棊のコマに手を伸ばす。
天青石でできたコマは、ひどく脆い。
遊戯に使えば、あっという間に壊れてしまうだろう。
役に立たないコマだった。
「隠し事はするようだな」
窓から差し込む陽光にさらしてやると、コマは歌いだすように輝き始める。
かつて、少女が望んだようにきらきらと輝く。
手のひらの上の水色の輝きは、都合の良すぎる情景のようだった。
司馬懿はためいきをついた。
少女が隠していることを知ることはないだろう。
しょせん、金を稼ぐためにいる護衛武将だ。
すべてを語る必要は……どこにもない。
少女の上官がたまたま司馬懿だっただけだ。
司馬懿にしても、長々と続いた護衛武将が少女だっただけだ。
すべてを知る必要はない。
青年は弾棊のコマを元の位置に戻した。
何を言いたかったのか。
何を知りたかったのか。
迷路のような問いを頭の片隅に追いやる。
このような個人的で、瑣末なことを考えている暇はないのだ。
司馬懿はこの国の軍師で、この国に勝利をもたらすために、思考を巡らせなければならない。
青年は、弾棊のコマから無理やり視線を外した。