2月14日といえば、乙女たちの祭典、バレンタインデー。
甘いチョコレートに思いを託して、意中の彼に渡したり。
はたまた、ホワイトデーを期待して、チョコレートを賄賂のごとく押しつけたり。
季節の挨拶代わりに、チョコレートを配って歩いたり。
意味はそれぞれ、真意もそれぞれ。
とにもかくにもチョコレートの日である。
思いの深さを競ってみたり、もらった数を誇ってみたり。
男性陣にとっても、それなりに楽しみな日であったりする。
そんなこんなで2月14日はやってくるのだった。
もちろん、この二人にも。
曹魏、司馬懿の書斎。
卓に乗り切れなかった小箱たちは、床の上に積まれていた。
いや、山になっていた。
この部屋の主は、顔色は悪いが、顔立ちは悪くない。
家柄も悪くないし、主君の覚えめでたい出世頭だったりする。
あの性格を脇に置いておけば、結婚するのに悪くはない相手だったりする。
もっとも、三国一キレやすい性格を脇に置いておける豪胆な女性は少ない。
結果、このチョコレートの山の大半は、義理チョコである。
季節のご挨拶を忘れようものなら、何を言われるかわからない。
無駄に記憶力の良い軍師だ。
『とりあえず、贈っておこう。イヤミを言われたくないし』の精神でもって、健気な女性たちは安くもないけど、高くもない贈答用チョコレートを用意したわけだ。
さて、山の側には小柄な少女が座り込んでいた。
おもむろにチョコレートの山に手を伸ばしたのは、司馬懿の恋人・。
真っ赤なリボンをせっせとほどく。
ピンクの包み紙を開けて、パカッとふたを開ける。
中には、一口サイズのトリュフチョコレートが3つほど並んでいた。
ちんまりと並んだそれらは、みな味が違うようだった。
粉糖がかかったホワイトチョコレート。
金粉が冠のように乗るビターチョコレート。
繊細なレースのように包まれたミルクチョコレート。
食べやすいように、飽きがこないように、トリュフが3つ。
贈り主は気の利く大人の女性だろう。
そんなことは、にはまったく関係がなかったが。
「いただきまーす」
司馬懿宛のチョコレートを美味しそうに、は口にする。
多分、いや絶対……贈り主本人がいたら怒りそうな光景であった。
が、幸いなことに部屋にいる人間は二人きり。
と司馬懿だけだった。
美味しいぃ〜!!
世の中に、こんなに美味しいものがあって良いのかなぁ。
えへへ。
司馬懿様が、甘いもの好きじゃなくて良かったぁ。
少女はニコニコと笑う。
「司馬懿様、これ美味しいですよ!」
咀嚼し終わった少女は、箱を示す。
まだ、チョコレートは2つある。
「金箔がのってるヤツなら、司馬懿様でも食べられそうですよ」
「いらん」
司馬懿は、2月14日だろうと、仕事をする人間だった。
いつもと同じように、竹簡になにやら書きつけている。
「こんなに美味しいのにぃ〜」
「見ればわかる」
青年は箱を一瞥すると、言った。
「へ?
食べなくても、わかるんですか?」
は目をしばたかせる。
「くどいほど甘そうだ」
「どうして、見ればわかるんですか?
確かに、目で食べるって言いますけど……、食べてみないと味はわからないじゃないですか」
「お前の顔に書いてある」
「…………毒見ですか、私」
「食べたくないなら、食べなくてもいいんだがな」
「だって、司馬懿様。
そうしたら、チョコレート捨てちゃうじゃないですか!
もったいないですよ。
こんなに美味しくて、賞味期限も切れてなくて、ちゃんと食べられるのに」
は力説した。
まだ食べられるのに、捨てちゃうなんて。
信じられない〜!! って言いたいところだけど、司馬懿様、ホントに捨てるんだもんなぁ。
初めて見たときは、自分の目を疑ったし。
三食きちんとご飯を食べられない家だって、たくさんあるのに……。
司馬懿様、お金持ちだから、空腹の辛さを知らないんだ。
おなか空いて、食べ物がないときって、すごーくすごーく辛い。
特に寒いときって……。
ほんの数年前の自分の境遇を思い出し、少女は口を引き結ぶ。
大きな黒い瞳は潤んだが、涙をこぼすことはなかった。
初めて恋した人は、そんな人間なのだ。
生まれも育ちも違って、横暴で……、それでも大好きな人だった。
「甘いものは嫌いだ。
知っていて贈りつけてくるほうが悪い」
司馬懿は言った。
「バレンタインデーには、チョコレートが付き物です!
世界のジョーシキですよ」
明るくは言った。
「ほお」
「何ですか?」
痛いくらいに突き刺さってくる視線に、少女はギクリッとする。
「その世界の常識とやらは、お前には適用されないようだな」
司馬懿は皮肉る。
「もしかして、司馬懿様チョコレートが欲しかったんですか?」
チョコレートをまったく用意してこなかった少女は尋ねる。
司馬懿は答えなかった。
それが明確な答えなような気がして、そうでもないような気もして、は混乱する。
「だって、こんなにチョコレートがあるじゃないですか。
みんな司馬懿様宛ですよ。
私があげたら、チョコレートが一個分、確実に増えちゃうんですよ。
甘いものは食べないって……。
捨てられちゃうかもしれない物を……あげるなんて……。
だって……そんな」
少女はパッと顔を上げ、司馬懿を見つめる。
「お金がもったいないじゃないですか!」
重苦しい沈黙が場に停滞する。
外へ飛び出していったほうが暖かいんじゃないんだろうか。
そんな勘違いを引き起こすほど、冷たい空気が漂った。
「なるほど」
司馬懿は言った。
「違います!
違うんです!!
そんなことを言いたかったんじゃないんです〜!!
ちょっとは、そんなことも考えましたけど。
好きじゃないものを贈るって、ヒトデナシみたいじゃないですか〜!
だから、私なりにいっぱいいっぱい考えたんです。
私にとって価値のあるもので、司馬懿様ももらって嬉しいもの。
そんなものをプレゼントしようって」
「金か」
「え……お金のほうが良かったんですか?
てっきり、お金なんてプレゼントしたら、司馬懿様、怒るんじゃないかって思って。
やめたんですけど」
「怒りはしない。
呆れるだけだ」
「それ。あんまり……変わらないような。
あ、それで、考えた結果に、念のため相談もしたんです。
妙才様や文遠様は賛成してくれたので、大丈夫かなって。
だから、安心してください。
世間一般から見ても、もらって嬉しいものですよ」
「それで?」
「私の命をプレゼントします♪
いざというときは、司馬懿様の盾になります。
私の忠誠心を司馬懿様に差し上げます。
絶対、何があっても、私は司馬懿様を裏切りませんよ!
……あれ?
嬉しくありませんか?
おかしいなぁ〜」
少女は小首をかしげる。
「今日ぐらいは、その辺の女どもを見習ったらどうだ!!」
司馬懿は怒鳴った。
「チョコレートが食べたいなら、たくさんありますよ」
は持っていた箱を差し出す。
「誰が甘いものを食べたいと言った?」
「え、だって……。
見習うって、チョコレートを司馬懿様にあげることですよね。
ここにあるチョコレートと、私があげるチョコレートに差はきっとありませんよ。
市販品で、トリュフチョコレート。
おんなじ味です」
無邪気に少女は言った。
「話にならないな」
「司馬懿様は、何が欲しいんですか?
そんなにチョコレートが欲しいのなら、今から買ってきます」
「チョコレートが欲しいわけではない」
司馬懿は顔を引きつらせながら言った。
青年にしては譲歩したほうだった。
口が裂けても『チョコレートにこめられる気持ちが欲しい』とは……司馬懿には言えるはずもない。
声に出されないものは、当然伝わらない。
ただでさえ、少女は鈍感で、色恋沙汰に向いていないのだから。
「じゃあ、どうすればいいんですか〜!?」
「それぐらい、自分で考えろ。
首から上は飾り物か?」
「もう、たくさん考えました!!
私が司馬懿様にあげられるものなんて。
私の持っている物は司馬懿様からもらったものばかりだし。
お金だって、嬉しくないんですよね!
だから、命以外にあげられるものなんて……。
え、あれぇ?
……もう一つだけありました」
はチョコレートの箱を卓の上にのせると、司馬懿の隣に立つ。
真冬の太陽のような色の瞳が機嫌良く細められた。
「う……、目をつぶってください」
「どうせなら、口にして欲しいものだな」
司馬懿は言うと、目を閉じた。
は大きく息を吸って、それから吐き出す。
心臓はうるさいぐらいに早鐘を鳴らし、緊張が増す。
少女はそっと唇を重ねた。
ほんの一瞬だけ吐息が交わる。
それだけのキスだった。
パッとは、司馬懿から離れる。
「チョコレートも悪くはないな」
青年は微かに笑む。
その言葉の意味に気がつき、少女はさらに顔を赤らめたのだった。