流星


「司馬懿様、星が流れたときに願いをかけると叶うって本当ですか?」
 真夜中色の瞳が真摯な光を宿して問うた。
 ただのおしゃべりと聞き流すこともできたはず……。
 だが、司馬懿は手を止めた。
 急ぎの書類を脇にのけて、筆を硯に戻す。
 そして、己の護衛武将を見つめる。
 給仕用のお盆を抱きかかえた少女は
「どんな願いも叶うって本当ですか?」
 と言った。

「さあな。
 天文では、星が流れるのは凶。
 誰かの天命が下されるときだ。
 おおかた、異国のおとぎ話だろう」
「じゃあ、叶わないんですか?」
 細い肩が心なしが下がるのが見えた。
「己の命が果てるついでに、願いを聞く者がいるかもな。
 どんな願いがあるというのだ?」
 司馬懿は尋ねた。
「え?」
「お前のことだ。
 金か?」
「ち、違います!
 いくらなんでも、お金なんてお願いしません。
 どうせなら、お金持ちになりたいです!!」
 は力説する。
「金があっても叶うことなど、高が知れている」
 司馬懿は薄く笑う。
「お金があれば、助かる命だってあります」
 寒村の出の少女は突っかかる。
 動乱の世であれば、貧しき者、弱き者は助からない。
 天はふるいをかけ、次の世にふさわしい人間を選別する。
「金を支払っても、助からない命もある。
 覚えておくのだな」
 司馬懿は言った。
「で、で、でも……。
 ないより、あったほうが良いです」
 感じやすい黒の瞳は、潤み始める。

「お前とはこの話は平行線のようだな。
 それで、星にかける願いは何だ?」
 青年は本題に戻す。
「え! あ、はい。
 願い……ですか?」
「どうしても叶えたい願いがあるのだろう?」
「へ?
 私、そんなことまで話しちゃいましたか!?
 ちゃんと、意識してしゃべっていたつもりだったのにぃ〜。
 ショックですぅ」
「ついでに話してしまえ」
 訂正するのも面倒だと思い、司馬懿は先を促す。
「と、特にはないんですよ。これが!
 あはは……。
 本当か、どうか確かめてからお願い事を絞ろうと思っていたんです。
 いっぱいありすぎて、一瞬じゃお願いできませんから!!」
 少女は屈託なく笑う。
 まるで太陽のようにキラキラとして、容赦がない。
 押し付けがましくも感じる笑み。
「ずいぶんと強欲だな」
「生きてますから!
 ずーずーしく行かないと、損しちゃいます」
 朗らかに言い切った言葉は、ずいぶんと醜いものだった。
 けれども、役得なのだろうか。
 少女が言うと、それは当然の権利のように響く。

「自分自身の願い事はないのか?」
 ふと気が向いて、司馬懿は訊いた。
「へ?」
「金が欲しいのは、家族のためであろう?
 自分だけの願い事はないのか?」
「……それって、最終的に自分のためになりませんか?」
 細い首をかしげ、少女は質問する。
「自分のためではなく、自分だけ、だ」
「えー……」
 黒い瞳をしばたかせ、は考え込む。
「どうしても、って言う願いはないです。
 大概のことは、がんばれば叶っちゃいます。
 がんばってもダメだったのは、諦めちゃえそうです」
 はあっさりと言った。

 司馬懿は大きく息を吐き出した。
 どうにも、調子が狂う。
 他人にやさしすぎる護衛武将に途惑うのだ。
「星も迷惑なことだろうよ」
 青年は呟いた。
「え!?」
「願い事のない人間に、毎晩探されても困るだろうに」
「願いは、いっぱいありますよ!」
「自分だけの願い事が見つけられたら、星でも探せ」
 司馬懿はそう言うと、筆を取る。
 何か言いたげな夜に瞳から視線を逸らす。
「はーい」
 間延びした返事が返ってきた。


    ◇◆◇◆◇


 時は流れて。
 冬の足音が近づいてきた頃。
 司馬懿の屋敷の一室、盛大なクシャミをする少女。
 引きずるほど長い裳を邪魔そうにさばきながら、書卓に近づく。
 主にお茶を渡そうとして、ギロリと睨まれた。
「司馬懿様〜。
 今日はいつにも増して、機嫌悪そうですね」
 はニコッと笑い、書卓に茶器を置く。
 その手をつかまれて、少女は半歩後ずさる。
「……」
「風邪か?」
 この季節の太陽を凍らせたような双眸がを見つめる。
 途端に上がる脈拍に、少女は大いに困惑する。
 言葉をしゃべろうにも、上手くしゃべれなくなる。
 泣きたいような気分になる。
 別に怒られているわけじゃないのに、ドキドキして落ち着かなくなる。
「少し体温が高いようだな」
 司馬懿は言った。


 う。嘘。
 私の方が熱が高いなら、司馬懿様の手のほうが冷たいはず。
 つかまれているところだけ、熱があるみたいで……。
 熱いのに。
 よくわからないけど。だって……。


「最近、夜遅くまで起きているようだが……。
 早めに白状したほうが身のためだな」
 青年は唇だけに笑みをのせる。
「特に理由なんてありませんよ!
 ほら、空気が澄んできて、星がキレイだから!
 ちょっと眺めていただけです。
 それに司馬懿様より先に寝ると怒るじゃないですか!!
 だから、殊勝な……。
 ……ごめんなさい、半分嘘です」
 は困惑顔で言う。
 嘘を突き通すのことは難しい。
「流れる星でも探していたのか?」
「へっ!?
 だ、で、へ。
 どうして知ってるんですかぁ!?」


 もしかして、また無意識のうちにしゃべってた?
 気をつけても、気をつけてもくりかえすって、病気なのかなぁ。
 知られたくなかったのに。
 そりゃあ、すぐにバレるかもしれないけど。
 こんなにあっさり……って。
 もしかして、願い事まで知られちゃってる!?


「なるほどな」
 司馬懿は言った。
「今、引っ掛けましたね!!
 酷いです、司馬懿様!」
「いつまでたっても、司馬懿様と呼ばれ続けているからな」
「?」
「引っかかるほうが悪いということだ」
 不機嫌に司馬懿は言うと、手を引く。
「ひゃっ」
 はすとんと青年の腕の中におさまる。
 墨の香りと自分とは違う体温に驚き、少女は身を硬くする。
「自分だけの願いが見つかったのか?」
 すぐ傍で声が響いて、それがとても甘いもののような気がして。
 ふわふわと雲の上での歩いているように、現実感がない。


 お酒みたいに、言葉に酔うってことはあるのかなぁ。
 嫌な気分じゃないんだけど、ドキドキして。
 ぐるぐると目が回りそう。


「う……その。
 だいたいは……」
 は歯切れ悪く言う。
「ずいぶんと頼りない答えだな」
「だって……。
 ほらぁ、何て言うんですか?
 願い事って抽象じゃないですか。
 だから」
「そんな曖昧なことを願うのか」
 呆れたような声に
「お星さま、叶えてくれませんか?」
 は顔を上げる。
 不安はドキドキを打ち破り、青年の顔を注視する。
「願い事しだいだろうな。
 万能なのは、天ぐらいだ。
 そこに流れる星は、天に劣るだろうよ」
「たいしたことじゃないから……叶わないってのは困っちゃいますけど。
 すぐに叶わなくても良いっていうか。
 そのうち、叶えばいいかなぁって」
「どんな願い事だ?
 叶えられるものなら、すぐにでも叶えてやろう」
 司馬懿は命令した。
「聴いても呆れませんか?」
「聴いてみなくてはわからない」
「そりゃあ、そうですけど。
 ここは、呆れたりしない、と言うところですよ」
 は口を尖らせる。
「まるで誘っているようだな」
 墨の香りのする指先が少女の唇を軽くなぞる。
「誘われちゃわないでください!
 困りますぅ」
 半泣きになりながらは告げる。
「困るのか」
「困ります!」
 少女の言葉に、司馬懿は失笑する。
「それで願い事は何だ?
 早く言わぬと、おしゃべりできなくするぞ」
 やさしく甘いささやきの中の意味に気がつき
「言います!
 すぐ言います!
 言わせてください!!
 ……本当に、笑わないでくださいね。
 すごく変なことですよ!」
「待たされるのはあまり好きではない」
 物騒なことを青年は呟いた。
「だ、だって……。
 もうちょっと、ほんのちょっとで良いから。
 その、あの、司馬懿様と一緒にいる時間が増えたらな……って。
 忙しいのは知ってます!!
 だから。
 お星さまに頼んだら、叶うかなって」
 は視線を落とす。
「呆れてますよね」

 
 だから言いたくなかったんだけど。
 言っちゃうことになっちゃって……。

 
 頬にかすかな感触がして、驚いて少女は目線を泳がせる。
「待たされるのは好きではない。と言っただろう」
 耳朶を打つ吐息。
「あまり、が取れてます、司馬懿様ぁ」
 涙の浮かぶまなじりにくちづけが落とされる。
「今度は星に頼むな。
 その程度のことで風邪を引かれたら困る」
「だって……」



「き、キスするんですか?
 しないって!! ……言ってませんでしたよね。
 でも……」
 名を呼ばれるということは、そういうこと。
 いつの間にか決まった暗黙の了解というヤツである。
「名を呼んだだけだが?」
「え。
 ヒドイです!!
 せっかく覚悟したのに!!」
「して欲しかったのか?」
「そういうわけじゃないです。
 でも、司馬懿様はしたいんですよね」
「無理強いは嫌いだ。安心しろ」
「安心できません。
 嘘じゃないかもしれないけど、嘘っぽいです」
「選ばせてやろう。
 どちらが良い?」
「司馬懿様が私の願いを叶えてくれるなら、私は司馬懿様の願いを叶えてあげます」
 それが最大限の譲歩だった。
 はそっと瞳を閉じる。

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