「司馬懿様!」
しみじみとした秋の空気を一掃してしまうほどの明るい声が名を呼ぶ。
ろくなことがない。
経験談だが、司馬懿は手を止めた。
ろくなことがない、が付き合ってやらないほど狭量ではない。
「司馬懿様〜、聞いてください!」
屈託のない笑顔を連れて、少女は司馬懿の書斎に飛び込んでくる。
「聞かないと言ったらどうする?」
ふと悪戯心を起こして、青年は尋ねた。
は小首をかしげて、それからキッパリ言った。
「話すだけです」
「こちらの都合はお構いなしか」
司馬懿は大きく息を吐く。
「私がおしゃべりだってことは、司馬懿様だって良くご存知じゃないですか〜」
何がおかしいのかクスクスと少女は笑う。
「そうだな。
本当におしゃべりだ」
司馬懿は面白くなさそうに言うと、手招きをする。
黒い瞳をしばたかせながら、少女は司馬懿の傍へやってくる。
「何の用だ?」
「聞いてください」
少女の声は、抑えられた。
距離が空くと、少女は大きな声で話すらしい。
それに気がついてからは、近くで話をさせることにしていた。
「あのですね。
もうすぐ『はろうぃん』というお祭りがあるんですよ。
西の方のお祭りなんです」
お馬鹿な護衛武将にしては、ハキハキと言う。
「誰から聞いた?」
「殿からです」
は答えた。
予想通りの答えだった。
司馬懿は悪役面をさらに凶悪にさせた。
「ほぉ」
「べ、別にサボっていたわけじゃないんですよ!
司馬じゃなくて、おはじきを磨いていたら、殿がやってきて。
殿の部屋に行ったわけじゃないんです。
庭です!
それで…………。
スミマセン、ちょっとサボっていました」
少女は半泣きになりながら、謝る。
「本当は鍛錬とかしたほうが良いってことはわかってるんです。
でも、今日は久しぶりのお天気だったから。
あれぇ?
それって、もっと鍛錬したほうが良かったですよね。
どうして私ってこう、馬鹿なんだろう。
ああ、でも司馬懿様なら、元からそうだろうって言いそう。
これでも、努力してるんですよ。
目に見えないかもしれませんけど。
1ミクロンぐらいかもしれませんが、努力は努力です」
放っておけばいつまでも続くおしゃべりに
「考えていることを全部、話しているぞ」
司馬懿は気づかせてやる。
「へ!?
……また、しゃべっていたんですか?
ショックですぅ〜」
は言った。
「西国の祭りがどうしたんだ?」
司馬懿は話を筋に戻す。
「はい!
お菓子がもらえる日なんです!!」
満面の笑みを浮かべる。
現金な反応と言えばそれまでの様変わりだった。
「情報が足りぬな。
仮装をした子どもだけが、菓子を貰える風習だ」
「お菓子もらえませんか?
一応、最年少の護衛武将なんですけど」
「子どもだと言い張るのか?」
「そんなつもりは、ないようなあるような。
もらえる物ならもらっておこうかなぁ、って思いませんか?」
「そこまで浅ましくないつもりだが?」
「あはは、そうですよね。
司馬懿様ってお金持ちだから。
良いなぁ」
はつぶやく。
「毎日食べても、食べたりないものか?」
「へ?
あ、司馬懿様は甘いものが嫌いですよね。
じゃあ、わからなくても仕方がありませんねぇ。
すごーく、もったいないです。
お菓子って、いくらあっても良いですよ!」
瞳をキラキラ輝かせて、少女は断言した。
「そんなに良い物には思えないのだが、お前にとってはそうなのだろうな」
司馬懿は言った。
「はい!」
はうなずいた。
少女はお菓子が好きだから、うなずいたわけではない。
考えを認めてもらえたことが嬉しかったから、うなずいたのだ。
それの証拠に、はすっかり忘れていたのだ。
この祭りのことを。
話すだけ話したら、すっきりとしたのだろう。
お馬鹿な護衛武将らしかった。
だから、驚くことになる。
この月の末に。
「おはようございます、司馬懿様!」
朝から元気なのが、この少女の数少ない取り柄の一つだった。
黒い瞳をパチパチさせて、は室内を見渡す。
難しい顔をして机に向かっているはずの司馬懿がいなかったのだ。
「あれ?
司馬懿様、遅刻とか?
そんなことないよね。
時計の針よりも、時間に正確だって言われるんだし。
でも、病欠とか?
うわぁ、ありそう。
あんなに顔色が悪いんだもん。
内臓の一つや二つ、悪いところがあってもおかしくないよね」
室内をふらふらと歩きながら、はつぶやく。
「ん?」
扉からは竹簡の山で見えなかったが、大きな書卓の上に、書き置きと紙包みがあった。
見慣れた筆跡が『愚かな護衛武将へ』と書き付けあった。
「これって、私のこと?
司馬懿様の護衛武将って、私だけだもんね。
……私が字読めなかったら、どうするつもりだったんだろう。
愚かって、難しいし」
は紙包みを手に取る。
ほのかに温かいそれは、こうばしくて、甘い香りがした。
「これってお菓子?
………………って!
え!?
司馬懿様、どうしちゃったんだろう?
甘いもの嫌いなのに!
は、もしかして。
影でモテモテな司馬懿様……って言ってて無理があるんだけどぉ。
女官からお菓子をもらって、食べられないから私にくれたとか?
頬を染めながら『司馬懿様、これを』と焼きたてのお菓子を押しつける女官さん。
迷惑そうにお菓子を捨てようとして、ふと思い出す司馬懿様。
有効活用する方法がある、と。
良くある展開ってヤツかも。
くれた女官さんには悪いけど、これはありがたくもらっておきます♪
お菓子、お菓子、お菓子〜」
「よくそれだけ、話が作れるな」
背後からかかった声に少女は体を硬くする。
「し、し、司馬懿様!
いつからそこに!!
もしかして、これ罠だったんですか!?
用意周到すぎます!」
はお菓子を背に隠しながら言った。
「忘れ物を取りに来ただけだ」
司馬懿は書卓の上に竹簡を一つ取る。
「そんなことは書生さんに……。
ってもしかして、またクビにしたんですか?」
「故郷の両親が病気になったそうだがな。
私の元で長く続く者は、稀だな」
青年は皮肉げに笑った。
「お母さんは元から病気ですから、そんな理由じゃ辞めませんよ。
司馬懿様がクビにするまで、この仕事は続けます!」
はニコニコと笑った。
「ふん。
好きにしろ」
司馬懿は部屋を後にする。
が、何かを思い出したのか、振り返る。
「その菓子はくれてやる。
かわりに、悪戯をするな」
「へ?」
「ハロウィンの菓子とは、そういう意味だ。
勉強不足だな。
暇な時間は、おはじきを磨いていないで、本でも読んでいろ」
「はい」
少女は笑顔で返事をした。