スキルアップ


 変わらない毎日。
 平和な日々。
 こんな日が、ずっと続くもんだと勘違いしていた中。
 司馬懿の護衛武将・は、のんきな暮らしを続けていた。


「司馬懿様、司馬懿様〜」
 朗らかな声が廊下を渡る。
 磨き上げられた床を、ステップでも踏むように鳴らす。
 この国の皇帝と共にいた上官に、駆け寄る。

 軽く、曹丕の存在を無視って。

「司馬懿様、聞いてくださ〜い!!」
 ニコニコと笑顔を浮かべて、は言った。
「不思議なアイテムをゲットしました!
 この前の戦場で、階級が上がったから、スキルアップしたんです!」
「用は、それだけか?」
 司馬懿は不機嫌に言った。
 もっとも、この魏の軍師が機嫌が良かったときなど、数えられてしまうほどしかないのだが。
 それこそ真夏に雪が降るほど珍しいので、不機嫌な司馬懿を見て、驚く人間はこの魏の中には、ほとんどいない。
「それだけです!」
 どうしようもないほど、前向きで考えなしなのが、この少女の特徴だった。
「私は忙しい」
 意訳すると『お前にかかわっていられるほど、暇じゃない』である。
「いつも、そうじゃないですか。
 司馬懿様が暇そうにしているの、見たことがありません!
 あ、殿が暇そうにしていることなら、見たことがあります。
 って、あれ?
 殿、いつからそこにいたんですか!?」
「ずっと仲達と一緒にいた」
 曹丕はボソッと答える。
「え、そうなんですか!?
 あれぇ〜。
 興味がないから、気がつきませんでした」
 ケロッと少女は言った。
 …………比類なき皇帝に向かって。
「なるほど。
 それは仕方がないことだな。
 興味がないことには、注意を払わなくなるものだ」
 曹丕はあっさりと無礼を許した。
「殿って話がわかりますね!」
「私は皇帝だからな」
 無駄に偉そうに曹丕は言った。
「これから、軍議がある。
 適当なところで、遊んでいろ」
 司馬懿はに言った。
「では、甄のところへ」
「誰が、あなたに言いましたか!?
 これから軍議ですよ!!」
 司馬懿は青筋を立てながら、声を荒げる。
 手にしていた黒羽扇を千切りかねない勢いだった。

 うわぁー。
 司馬懿様、すっごく不機嫌。
 いつも、不機嫌だけど。
 今日は輪をかけちゃって感じぃ。

「はーい、わかりました。
 じゃあ文遠様のところにでも」
「これから軍議だと言ったはずだが?」
 の言葉を遮り、司馬懿は言った。
「えーっと」
 少女は小首をかしげる。

 つまりは、将軍はみんな出席ってことだよね〜。
 文遠様も、妙才様も、儁艾様も、いなくって……。
 護衛武将の先輩たち……は、さっきまでしゃべってたし。
 副将の皆さんも、忙しそうだし。

「どうすれば良いんですか?」
 思わず、は尋ねてしまった。
「知らぬ。
 自分のことぐらい、自分で考えろ」
「司馬懿様、不機嫌です〜。
 今日は何があったんですか?
 殿がまたお仕事サボったんですか?
 それとも、悪い夢でも見たんですか?
 あー、でも、それっていつものことかも。
 じゃあ、何が原因なんだろう。
 司馬懿様の黒羽扇の羽を集めて、売ろうとしていることがバレたとか?」
「そんなことをしようとしているのか?」
「呪いのアイテムって、売れそうじゃないですか?
 これを呪いたい相手の枕の下に入れると……。って」
 は慌てて自分の口を手で覆う。

 しゃ、しゃべっちゃった〜!!
 ないしょにしておこうと思ったのに……。
 私の華麗なる計画がぁ。
 どうして、すぐしゃべっちゃうんだろう。

「ほぉ。
 軍議が終わったら、話をきちんと聞いてやろう」
「は、は、話なんてないです!」
 少女は思いっきり首を横に振る。
「呪いのアイテムか……。
 私も一枚もらおう」
 曹丕が言った。
「へ?」
 はきょとんとする。
「とっとと、軍議に行きますよ!」
 司馬懿は曹丕を怒鳴りつけると、歩き出した。
 しぶしぶと、魏の皇帝はその後についていった。
 情けない以外の何ものでもない、主従の姿だった。



 特にやることのないは、中庭で日向ぼっこをしていた。
 副将たちと違って、護衛武将の一日はのんきなものだった。
 敵陣に火をかけたり、兵を伏したり、といった技能を持たない分、期待されている仕事はごく少ない。
 戦場で、上官の命を守る。
 それだけだった。
「良い天気〜」
 あくびをかみ殺しながら、少女は言った。
 気持ちの良い下草に、寝転びたくなる。
 が。

 この前、それ見つかって。
 司馬懿様にすごーく怒られたんだよね。
 どこに寝たって、変わりがないと思うんだけどなぁ。
 戦場に行ったりしたら、土の上で寝ることだってあるんだし。
 やっぱり、お金持ちは違うのかな?
 良いなぁー、お金持ちって。
 ご飯とか困ったりしないし、病気もすぐ治っちゃうんだ。

「お金、欲しいなぁ」
 16歳の少女に似つかわしくないことをつぶやく。
「護衛武将って儲かるじゃん。
 まだ、欲しいわけ?」
 明るい声が降ってきた。
「恵ちゃん先輩!」
「よ、
 元気してる?」
 甄姫の護衛武将の女性は、の隣に座る。
「はい、元気です!」
「なら良いんだけど。
 怪我は護衛武将の勲章だって言うけどさ。
 やっぱ、嬉しくないじゃん?」
 恵は笑った。
「あ、わかります。
 3日も眠っていたら、すっごく暇でしたよ〜。
 寝込むって好きじゃないです」
 嬉しくない部類の過去を思い出し、は顔をしかめる。
「……そういう意味じゃなかったんだけど。
 ま、いっか。
 司馬懿様、守ったんだって?
 凄いじゃん」
「本当ですか?
 スゴイですか!?」
 少女は目をキラキラさせる。
「伏兵を見破ったんだろ?
 副将でもできるヤツ、少ないんじゃないかな?」
「司馬懿様に怒られちゃったから。
 あんまりスゴイことしたように思えないんですよね」
 は困ったように笑った。

 司馬懿様、すっごく怒ってたよね。
 って、もしかして、あのときからずっと不機嫌?
 ……勝手なことしたから。
 あー、そうかも。
 心当たり、それぐらいしか。
 一応、たぶん、ないよねー。

「凄い、凄い、凄い!」
 恵はの抱きかかえると、頭をなでた。
 そうやって甘やかされることなんて、父が死んでから久しくなかったから、はくすぐったくなって笑う。
 塞ぎがちな心が、パッと晴れる。
 少女は、とても現金だった。
「張遼様に引き抜きされてるんだって?」
 恵は声をひそめる。
「あ、何故か、そうなんですよね。
 理由がよくわからないんですけど」
 つられての声も小さくなる。

 文遠様の護衛武将って優秀な人が多いって言うし。
 そんなところに行ったら、能力の低さが目立っちゃいそうぉ。

「で、どうすんの?」
「どうするって?」
「司馬懿様の護衛武将を辞めんの?」
「どうして、そうなるんですか?」
「張遼様の護衛武将だったら、いつでも最前線だよ。
 一度はなってみたいと思わない?」
「ないですよ」
「え、だって、護衛武将になったからにはさぁ。
 一番上を目指したくなるじゃん」
「最前線行ったら、死んじゃうじゃないですか。
 楽して、お金儲け! から、遠ざかります」
 真顔では言った。
「あ、そうだっけ。
 は稼ぐためにやってるんだっけ」
 恵は苦笑いすると、を解放してやった。
「恵ちゃん先輩は、どうして護衛武将になったんですか?」
「何でだろうね。
 気がついたら、こんなんだった。
 は、何で戦場に出るの?」
「お金儲けのためです!」
 少女は答えた。
 いつでも、誰に訊かれても、同じ答えを返す。
 口ぐせを言った。
「そういうことにしておいてあげるよ」
「……」
「顔に出てる。
 戦うのが好きじゃないって。
 護衛武将なんて辞めてさ。
 司馬懿様のお嫁さんにしてもらいないよ。
 そっちの方が似合ってる」
 恵は真剣に言った。
「お、お、お嫁さんっ!?」
「考えておきなよ」
「ありえませんよ!」
「じゃあね。
 元気そうで良かったよ」
 恵は無責任なことを言って、立ち去った。



 夕刻。
 司馬懿の書斎に、はいた。
 非常に嫌なことだが、話を聞いてもらうために。
 早い話が、説教だ。
 書卓の上の、竹簡が増えていた。
 軍師の仕事が増える理由は、一つだけ。

「また戦があるんですか?」
 気がついたら、訊いていた。
「は!
 な、何でもないです!
 何にも言ってません!!
 今聞こえたことがあったら、空耳です!!」
 慌てて、は言葉を紡ぐ。
 琥珀のような鋭い瞳が、少女を見やる。

 ひぃー。
 やっぱり、機嫌悪いよぉ。

「不満か。
 当然だな」
 司馬懿はためいき共に言った。
「へ?」
「楽して稼げないからな」
 司馬懿は言った。
「あ、はい。
 そうです。
 けど、仕方ないですよね。
 私は護衛武将ですから、戦に行くのは」
 はヘラっと笑った。

 戦に行きたくないって、言っちゃダメ。
 そしたら、クビになっちゃう。
 正夢になっちゃうかもしれない。
 阻止することができなくなる。

「それで話が、あったのではないのか?」
「え?
 話があるのは、司馬懿様じゃないんですか?」
 はきょとんとした。
「昼間、聞いて欲しいことがあると、言ったのはお前だろう」
「あ、はい!
 そうです!!
 覚えていてくれたんですね」
 すっかり昼間のことのなんて、忘れていた少女はニコッと笑う。
 雑多なものたちと同列の記憶でも、覚えていたという事実が嬉しい。
「お前と違って、記憶力は良いからな。
 話したいのなら、話せ。
 聞いてやろう」
 司馬懿は言った。


 結局、司馬懿が不機嫌な理由をは知ることができなかった。
 これは、後々まで尾を引っ張ることになる。
 もちろん、鈍感な少女は知る由もなかった。

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