「司馬懿様ぁ〜、すっごい本を見つけました!」
長い裳裾を気にしながら、それでも足早に少女は恋人の元へ向かう。
夏の暑さをはじくように純白の裳がひるがえる。
精緻な刺繍が施されたナデシコ色の糸履(布製のくつ)がちらりと見える。
淑やかとは、対極にいる少女に司馬懿は眉をしかめた。
が、はそんなことは気にしない。
「見てください。
未来のことがわかる本なんですよ!
どこで何があるのか、とか。
これから何が起こるのか、とか。
全部、わかっちゃう本です!!」
は不思議な形をした本を司馬懿に差し出す。
この時代にはない造りの本を一瞥すると、青年は仕事に戻ろうとする。
「興味ないんですか!?
司馬懿様がどんな戦に出るとか。
その戦いの勝敗とか。
…………どうやって死ぬのか、とか。
載ってるんですよ」
「これが預言書だという保証がどこにあるのだ?」
「さぁ。
貰い物だから、そこまではちょっと……」
「貰い物?
誰から貰ったんだ!?」
司馬懿は鋭く問う。
ひゃあ。
し、司馬懿様、怒ってる。
ど、ど、ど、どうしよう〜。
「知らない男の人です」
クリッとした大きな瞳に涙が浮かぶ。
「でも、全然怪しくなんかなかったですよ〜!
身なりもきちんとしていたし、言葉に訛りもなかったし」
「ほお。
名前も知らない男と話し込んだ挙句、物まで貰ってきたのか」
司馬懿は淡々と言った。
ヤバイ。
これは、すごーく危険な気がする!
怒ってるぅ〜。
でも、どうして…………?
本をくれた人は、危険人物には見えなかったし。
むしろ丁寧な物腰だったし。
他国のスパイとか?
私、おしゃべりだから、機密をもらしちゃった?
ああ、でも。
護衛武将辞めてからは、戦争のことなんてわからないし。
せいぜい、殿と甄姫様のラブラブ夫婦ゲンカとかしかしゃべってないし。
ってこういうことが、すでにマズイの?
「お前は私の何なんだ?」
司馬懿は尋ねた。
少女が護衛武将だったときから、くりかえし質問される。
鈍感な少女が真意に気づくことはない。
間近にある冬のお日さま色の瞳から逃れようと、は一歩身を引いた。
「私は司馬懿様の」
一瞬で、すべらかな頬が、庭先の長春花よりも紅く染まる。
「こ、こ、こ、こ」
はうつむいて、衣の裾をいじりだす。
恥ずかしいぃ〜。
だって、だって。
「鶏の鳴きまねか?」
青年は口の端をゆがめて笑う。
「ち、違います!」
「では、何だ?」
「そ、それは……。
そのー、あの。
私は……司馬懿様の……こ、こい」
「恋人だ」
落ち着いた低い声が降ってくる。
それが居心地が悪くて。
でも、嫌じゃなくて。
とても、恥ずかしいから顔が上げられない。
きっと今の自分は、変な顔をしてるから。
「……はい」
蚊のなくような小さな声で、は返事をした。
「何度注意すればわかる?
素性のわからぬ男とは会話するな」
「良い人そうでしたよ」
少女は反論を試みる。
「お前にとって、物をくれる人は全部良い人だろう。
そんな基準はあてにならない」
司馬懿はぴしゃりと言った。
「気をつけます。
それで、未来がわかる本はお役に立ちませんか?」
まだ顔を上げる勇気はないから、うつむいたまま問う。
「必要ない」
「でも、あったら便利だと思うんですけど」
「その本が真実のことしか書かれていなかったとしても、私は読まない。
お前は読んだのか?」
「一番最初に、司馬懿様に見てほしかったから。
まだ読んでません」
「それで良い。
天意など知らぬほうが、良い。
過分なものに手を出した人間は、滅びるだけだ。
各々、器というものがあるからな」
「じゃあ、誰だったらこの本を読めるんでしょう?」
「さあな。
元の持ち主に返してやるのが一番だ」
「どうやって探せばいいんだろう?
名前知らないのに」
「お前が見知らぬ男だったのだろう?
この城を走り回っているお前が知らなかったのだ。
持ってきた男は、この国の民ではないのだろう。
そして、わざわざお前に手渡したんだ」
厄介だな、と司馬懿は忌々しげにつぶやく。
「最善ではないが、最良ぐらいにはなるだろう」
そう言うと司馬懿は本を宙に投げる。
タイミングを合わせて、気を放つ。
丸い形のそれは、氷玉。
シャラリン
妙なる鈴の音のような音がして、本は凍りつき床に落下した。
その衝撃で、本は粉砕された。
夏だというのに、辺りは凍えるような冷気に包まれる。
「知らぬから未来に、価値があるのだ」
司馬懿はつぶやくように言った。
「明確な約束が欲しくありませんか?」
は顔を上げた。
やっぱり間近に冷たく見えるものの整った顔があったから、ビクッと肩を揺らす。
うっ。
護衛武将のころは、平気だったのに。
全然、落ち着かないよぉ。
み、見慣れているはずなのに……。
変に美形だから悪いんだぁ。
「どんな約束が欲しいのだ?」
ものによっては、この私が叶えてやらなくもない。言外に匂わす声。
自信にあふれた声に、今は笑うこともできなし、安堵することもできない。
小柄な少女の内側はたくさんの感情が渦巻いていた。
「だって……。
司馬懿様、いつ死んじゃうかわかったほうが良いと思って」
しどろもどろに少女は答える。
「私が死ねば、財産はお前のものか……」
司馬懿はためいきをつく。
「お金目当てじゃありません!
だって、だって。
死んじゃう日がわかったら、先に覚悟できるじゃないですか」
言っているうちに声が震えてくる。
「いつも、いつも。
未来なんか、わからないから」
には未来は見えない。
知っているのは「人間はある日、突然死ぬ」ということだ。
昨日まで言葉を交わしていた人間が、急に消えることもある。
それは父であったり、護衛武将の先輩であったり、見知った武将でもあった。
目の前の男性とて、その例外には入ってくれない。
護衛武将として、戦場を共に駆けていたときはまだ良かった。
運命を変えるための努力ができた。
けれども、今は違う。
無力で、ただ待っていることしかできない。
墨の香りが染みついた指先が、少女の頬をなでる。
「あと何日後に死ぬ。と考えながら惰性で生きるつもりはない。
今が全てだ」
司馬懿は断言した。
「今が楽しければ良いって、後悔しませんか?」
「その後悔をしないように一日を過ごすのが、生きるということだろう」
どこかの教科書みたいなことを司馬懿は言う。
「立派すぎて、私には無理です」
は上目遣いで、青年を見る。
「であろうな」
「……司馬懿様、嘘でも否定するのが情けだと思うんですよ」
「お前が何に憂いているのか、理解しているつもりだが?」
「?」
「曹魏にとっては嬉しくないことに、戦は膠着状態だ。
しばらくは出陣はあるまいよ」
「ホントですかっ!?」
クリッとした大きな瞳はキラキラと輝く。
「ああ」
「じゃあ」
はニコニコ笑顔を浮かべる。
十八番のおしゃべりを始めるところだったが、それはできなかった。
自分より冷たい指先がそれを阻止する。
「」
滅多に呼ばれることのない名前。
これから必ず起きる近い未来に、ドキッと心臓が飛び跳ねる。
少女は、このすぐ近くの未来を知っている。
高鳴る心臓に、熱くなる頬に、まだ慣れない感情に、振り回されながら。
そっと瞳を伏せて、未来を待つ。
お菓子よりも甘い、甘いひととき。
微かなふれあい。
不確かな世界で、約束された未来。
強い喜びと幸せだった。