軽い足音が、回廊を渡る。
それは騒ぎの起こる前兆。
上奏文の文面を考えていた司馬懿は、ためいきと共に筆を置いた。
これから起こる騒動にかすかに身構える。
「司馬懿さまぁ〜!」
護衛武将のが部屋に飛び込んでくる。
ニコニコ笑顔で司馬懿を見る。
「見てください!!」
抱えていた本を青年に差し出す。
司馬懿は胡散臭そうに、それを見た。
「この本、スゴイんですよ♪」
は言った。
何でも大げさに表現する少女のことだ。
さして、凄いものではないだろう。
と、司馬懿は思った。
「なんと、司馬懿様の命日が書いてあるんです!」
突拍子のない人間だと思っていたが、ここまでとは。
司馬懿は呆れた。
「何年後のいつだかわかりませんが、今日死んじゃうんですよ!」
明るく元気に死亡予定日宣告。
された方はたまったものではない。
三国一キレやすい軍師が黙っているはずもなく
「勝手に人を殺すな!!」
書卓に置かれた黒羽扇を手に取ると一閃する。
紫色のビームが周囲を薙ぐ。
辺りには戦場さながらの香ばしい匂いが充満する。
「えぇ〜。だって、本当のことですよぉ。
ちゃんと命日って書いてありました!」
司馬懿の護衛武将には、ちょっとやそっとではくじけない前向きな精神と、上官に文句をたれるようなふてぶてしさが必須であった。
このちっぽけな少女は、魏随一の弓兵であり、その敏捷性を上回る者がいない。という、本人を目の前にしたら納得ができない才能の持ち主。
ビームを避けながら、文句を言うのは朝飯前だった。
は不満げに唇を尖らせる。
「命日と連呼するなっ!!」
「ちゃんと8月5日って。
ほら、ここに」
は本を開いて、ページを指し示す。
ごく簡単な年表には、きちんと司馬懿の生没年が記されていた。
丁寧にも少女は、その部分を指し示す。
「こんな本を信用できるかっ!」
司馬懿は本を払いのける。
いつ死ぬかわからない戦場に、指先一つの命令で立たされ続けてきた。
勝って当たり前、敗将には死を。
断る権利などどこにもなく、青年は策を練り、生き延び続けてきた。
明日の保障は誰もしてくれない。
そんな状況下で『命日』の話をされたのだ。
怒りを感じるのは自然なことだった。
「だから、今日はお祝いしましょう♪」
はニコッと笑った。
「は?」
司馬懿は驚きのあまり言葉を失った。
護衛武将の少女とは、けして短いとはいえない時間を共にしているが、いまだ理解できない。
青年が知っているどんなタイプの人間とも少女は違う。
予想外で、想像を超えることを口に出す。
一緒にいて、居心地の良い相手ではなかった。
「だって司馬懿様、生きてます。
お祝いしましょう!」
幼子のように屈託のない笑顔で言う。
「あなたが今、生きていることが嬉しい」 と。
頭の良い青年は理解した。
少女が己の『命日』を知って、喜んでいる理由を見つけた。
司馬懿は大きく息を吐き出した。
「馬鹿め」
不機嫌に司馬懿は言った。
「お祝いしないんですか?
美味しいご飯食べましょうよ。
お庭の蓮の花がとてもキレイだったんですよ。
真っ赤なのと真っ白なのが咲いてました。
そこで、お弁当を広げましょう!」
「こんな炎天下でピクニックか。
誰がそんなことをすると思うのだ?」
「えへへ。
お月さまが出たらやりましょう。
キレイな夜光の杯も持って」
「酒が飲めるのか?」
「お月さまの光を浴びた蓮の花って、幻想的だと思いませんか?」
「なるほど、飲めないのか」
「私は水で良いです!
それで、お祝いしたくなってきませんか?」
クリッとした黒い瞳が司馬懿を見つめる。
「暇があったらな」
司馬懿は上奏文の草案に視線を落とした。
暇ができるとは思えないほどに、書卓には竹簡が山積みになっている。
それに少女が気づかないはずもない。
司馬懿の唯一無二の護衛武将は、底抜けに前向きだった。
「約束ですよ、司馬懿様!
絶対、お祝いしますからね♪
8月5日は、今年だけじゃありませんから!」
は朗らかに言い切った。
まるでこの季節の太陽のように、容赦のないほどの明るさだった。
「そうか。
来年もあるのか……」
司馬懿はかすかに口元に笑みを刷いた。
誰も未来のことは約束できない。
たとえ神であったとしても。
決められた運命を曲げることはできない。
それでも、少女は未来に約束を取りつける。
そんな少女の強さが、司馬懿には理解できなかった。
おそらく、これから先も、わかることはないだろう。
それは、そんなに居心地の悪いことではなかった。