香り


「司馬懿様って、武将なんですよね」
 予想外で、規格外な、護衛武将・は言った。
 まあ、上官の司馬懿からして、魏軍にいても色物なのだから、存外ちょうど良い護衛武将なのかもしれない。
 ……司馬懿は納得しなさそうだが。
「いきなり何の話だ?」
 司馬懿は上奏文の文面を練りながら尋ねる。
「墨の匂いしかしませんよね」
 は言った。
「お前は外の匂いがするな」
「えー、匂いますかぁ?
 おかしいなぁ。
 ちゃんと、鍛錬の後に水浴びしたのに」
 汗臭いなんて、ショックぅ〜、とは続ける。
 護衛武将とは言え、年頃の娘。
 見目麗しく着飾りたいとは思わないが、こざっぱりとはしていたいものである。
「女性らしく、香でもまとったらどうだ?」
「あ、そういう意味ですか?
 別に、良いですよ!
 お香ってすっごく高いんですよ!
 私には似合わないし、お金の無駄遣いしたくないんです!!」
 はニパッと笑う。
「どれ、墨くさくしてやろう」
 司馬懿は言うが早いか、小柄な少女の体を抱き寄せた。
「ひゃあっ!」
「……もう少し、女らしく悲鳴が上げられないのか?」
「持ち合わせがありません。
 そう言うことは、他の人に頼んでください。
 私に言われても……」
 は困惑する。
「それもそうだな」

 って、司馬懿様!!
 納得されても、困るんですけど!?
 しかも、これじゃあ……。

「これじゃあ、何にもできないんですけど」
「だろうな」
「離してくれる気は……?」
 はビクビクと質問する。
「当分、ないな」
「え」
「そんなに嫌なら、私の手を振り解いたらどうだ?」
「えーっと」

 嫌かどうかと言われたら、そんなに嫌じゃないけど。
 でも、このままも困るし。
 第一、振りほどいた際に司馬懿様にケガなんかさせたら、間違いなくクビだよね。
 良くて、減給処分。
 クビになるのは困る!!
 減給処分だって、困るし……。
 でもこの体制からケガをさせずに振り払うのは、急所はダメなわけで……。
 となると……司馬懿様だって、抵抗するかもしれないから。
 んー……。

「同意したとみなすぞ」
「へ?
 何でそうなるんですか!?
 全然、同意していませんよ!!」
「耳元で怒鳴るな」
「それは司馬懿様が離してくれないから、耳元なだけで……」
「私に口答えするつもりか?」
 冷ややかな司馬懿の声が、の耳をくすぐる。
「すみません。
 何でもないです」
 はしゅんとする。
 ここで気難しがり屋な上官の機嫌を損ねてしまうと大変になることぐらい、お馬鹿な護衛武将にもわかった。

 なんか不思議な気分。
 司馬懿様の心臓の音が聞こえてくる。
 全然、私よりもゆっくりしてる。
 着てる衣、絹だよね。
 すべすべして、ひんやりしてて、気持ち良い。
 墨の匂いって、……秋の葉っぱみたい。
 落ち着くって言うか……。
 寂しいんだけど、……良い匂いだよね……。
 ……んー。
 …………。
 ……………………。
 って、何なごんでるの自分!
 あやうく寝ちゃうところだった!!

「あのー、司馬懿様」
 は恐る恐る口を開く。
「何だ?」
「このままだと、私寝ちゃいそうなんですけど」
「ずいぶんと警戒心が薄いな」
「あはは。
 ……すみません、護衛武将なのに」
「全くだな」
「司馬懿様、ここ否定するところです」
 はつい突っ込みを入れてしまう。
「残念ながら、持ち合わせがないな」
 かすかに笑い声が響く。
「あ、そうなんですか。
 そうですよね、司馬懿様ですから」
「何が言いたい?」
「離してくれませんか?
 じゃないと……寝ちゃいそう、です」
 は重たくなっていくまぶたと格闘する。

 うーん。
 昨日はちゃんと眠れたんだけどなぁ。
 本当に眠くなる。
 司馬懿様って、安眠枕みたい。
 そのうち、店頭とかに並んじゃうのかなぁ。
 でも、こんな顔色の悪い安眠枕じゃ売れないかも。

「勝手にしろ」
 司馬懿は言った。
「本当に寝ちゃいますよ」
「脅しになっていないぞ」
「あ……れ。
 お、かしいで……すね。
 でも、本当にここ……気持ちが良いから……ね、ちゃいま……す」
 の記憶はそこでぷっつりと切れた。
 だから、この後の司馬懿のつぶやきは、当然聞くことはできなかった。




「太陽の匂いがするな。
 ……このまま私の匂いに染まっていろ」
 と、不機嫌に司馬懿は言った。

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