「司馬懿さまぁ〜」
元気の良すぎる声が午後の静寂を打ち破る。
迷惑そうに司馬懿は顔を上げた。
目の前には、護衛武将のがいた。
「何の用だ?」
書き上がったばかりの竹簡を巻きながら、司馬懿は問う。
「恋文を書いてみました!」
は竹簡を差し出した。
司馬懿は空耳かと思った。
さもなくば、都合の良すぎる夢だろう。
それぐらいこの少女には、色恋沙汰が似合わない。
「添削して欲しいのか?」
司馬懿は尋ねた。
少女が書ける文字はまだ少ない。
詩の作り方も教えていないので、竹簡の中身は推して知るべし。
「やだなぁ〜。
司馬懿様のために書いたんですよ〜」
はニコニコと言う。
絶対に罠だ、と司馬懿は思った。
どこかに落とし穴が待っているはずだ。
希望を持ちすぎないように、司馬懿は自制する。
「がんばったんです」
は軽薄そうにヘラッと笑う。
司馬懿は竹簡を広げた。
「……」
今さらだが、この少女に期待をかけることが間違っている、と痛感した。
その証明がそこにはあった。
恋文だと渡された竹簡には、ただ一文字だけが書かれていた。
一文字しかないとしても、充分に能弁なこともあるが……。
これは問題外だった。
『銭(お金)』
「どう言うつもりだ?」
青年の竹簡の持つ手がふるふると震える。
「?」
は小首をかしげる。
「どう言うつもりだ、と聞いているのだ!」
司馬懿は書卓に竹簡を叩きつけた。
バンッと大きな音がして、小柄な少女は跳び退った。
「何か、間違ってました?
恋文って、好きな言葉を書けば良いんじゃないんですか?」
リスのようにクリッとした瞳が半泣きになりながら、司馬懿を見上げる。
悪戯やからかうために、こんなことをするはずがない。
ただ単に、また初歩的な失敗をしただけなのだろう。
司馬懿の顔色を窺う黒い色の瞳は、真っ直ぐだった。
「誰から聞いた?」
大人げないことをしてしまった、と司馬懿は後悔した。
物知らずな少女が『恋文』の意味を、正確に把握しているはずがない。
青年は深々とためいきをついた。
「と、殿からです」
ビクビクとは答える。
「恋文の意味がわかっていないな……。
曹植殿に書き方を習ってこい」
司馬懿は竹簡を放り投げる。
は慌てて、それを受け止めた。
「これじゃ、ダメなんですか?」
「借金の申し込みにしか見えないな」
「えー、一番好きな文字なのに」
「そういうものは、自分の部屋にでも飾っておけ」
司馬懿は大きく息を吐き出した。
「じゃあ、司馬懿様。
ちゃんとした恋文の書き方を教えてください」
は不満そうに司馬懿に言った。
「曹植殿に訊けば、きちんと教えくれるだろう」
「司馬懿様じゃダメなんですか?」
「私は忙しいのだ」
司馬懿は書卓に山と積まれている竹簡を示す。
「はーい」
翌日。
「司馬懿様、頑張りました!」
は自信満々に折りたたまれた紙を差し出す。
確かに、努力をしたのだろう。
竹簡から紙に、と格が上がっていた。
司馬懿はそれを受け取って、中身を見た。
やはり、一文字だけ書かれていた。
頭が痛くなるような単語が。
『仁(思いやり)』
司馬懿は無言でその紙を破り始めた。
「あぁ〜!
ヒドイですぅ。
一生懸命書いたのに。
しかも、その紙、まだ書けるところがいっぱいあります!
いらないなら、私にくださいよ!!」
は抗議する。
司馬懿は無視して、極限まで紙を細かく破いた。
「そりゃあ、手を抜いた私が悪かったかもしれませんけど。
それにしても、ヒドイです」
書卓の上の細かくちぎられた元・恋文に、は涙する。
「お前の気持ちは、よーくわかった。
これ以降、こんな馬鹿なことをするな」
司馬懿は不機嫌に言った。
「何が悪かったんですか?
やっぱり、画数が少なかったからですか?
好きって意味のある言葉で、一番画数が少ないのを選んじゃったからですか?
だって、他の字は難しかったんですよぉ。
みんな覚えづらかったんです。
ちゃんと、1フレーズ書けば良かったんですか?
司馬懿様に上げようと思ったから、一番綺麗に書けたヤツを持ってきたんですよ」
グスグスと未練たっぷりには語る。
「もういい」
司馬懿は仕事を再開する。
「もう一度だけ、チャンスをください!
もう一つ、覚えた字があるんです」
は食い下がる。
大きな瞳が司馬懿を真剣に見つめる。
「そこに紙がある。
好きにしろ」
司馬懿は大きく息を吐き出した。
「はい♪」
少女の顔がパッと明るくなる。
数分後。
は、紙を差し出した。
お世辞にも綺麗な文字ではなかったし、危うく違う文字かと思ってしまうぐらい、その文字は整っていなかった。
それは暗に、前の二つはちゃんと清書していたことを示していた。
「これなら、もらっておこう」
司馬懿は受け取った。
一文字だけ書かれた手紙に、青年はほのかに笑った。
「はい!」
は満足げに笑った。
その紙にはこう記されていた。
『愛』