不可知


 軽い足音は騒ぎの前兆。
 司馬懿はためいきをついた。
 この騒ぎに慣れていこうとしている自分に対して、げんなりする。
「司馬懿様〜」
 この世に悲しみも苦しみもないと言わんばかりの明るい声が彼の名を呼ぶ。
 小柄な少女が長い髪を弾ませながら書斎に飛び込んでくる。
 今日は一体、どんな話を聞きつけてきたのだろうか。
 黒い瞳はキラキラと輝いていた。

「殿って、自分の思い通りにならない女の人が好きって本当ですか?」
 護衛武将・は嬉しそうに尋ねる。
「やぶから棒だな」
「ちょっと小耳に挟んだんです」
 はニコッと笑う。
「お前は好みの範疇ではないだろうな」
 司馬懿は皮肉る。
 容姿がすぐれていて、賢く、情に深い。
 その上で、自分の思い通りにならない女が良いと言うのだ。
 目の前の小娘に、曹丕が手を出すことはないだろう。
「いくら玉の輿を狙ってるからって、そんな大それたこと考えていませんよ〜。
 それで、殿ってマゾなんですか?」
 はのー天気に問いを重ねる。
「は?」
 司馬懿は己の護衛武将を怪訝に見つめる。
「だって、思い通りにならない女の人が好きってことは、サドじゃなくてマゾなんじゃ。
 司馬懿様なら詳しく知っていそうだなって思ったんです」
「どうしてそう思う?」
 司馬懿はためいきをついた。
 どうにもこうにも、少女の思考パターンが理解できない。
「殿の教育係だったんですよね」
 はケロッと言った。
「だからと言って性癖まではわかるわけなかろう!」
 何を揶揄されたのか気がついた司馬懿は、書卓をバンッと叩いた。
「えー、そうなんですか。
 司馬懿様って何でも知っているからてっきり」
 がっかり、とはつぶやく。
「興味のないことは知りたいと思わない」
「つまり、司馬懿様は殿の性癖はどうでも良いんですね」
 色恋に鈍いところがある少女は、すっぱりと言う。
「閨の中まで親密に付き合いたいと思わないからな」
「やたら、強調しますね。
 もしかして知契とか言われるのが嫌なんですか?」
「肝心なことを自覚しないくせに、余計なことばかり覚えてくるな」
「肝心なこと?」
 はオウム返しに尋ねる。
「無知な者に噛み砕いて説明するほど暇人ではない」
 司馬懿は鼻で笑う。
「ちょっと安心しました。
 司馬懿様に狙われる心配は皆無だってことがわかって」
「何故、そうなる?」
 目の前にいるのは、やはり理解しがたい生き物だ。
 話が簡単に飛躍する。
「え、司馬懿様って、従順な女の人が好きなんですよね」
「どこで聞いた?」
「あっちこっちで。
 殿からも聞きましたし、甄姫様からも聞きましたし、魚ちゃん先輩や恵ちゃん先輩、それに、夏侯淵様に」
 は指折り数える。
 両手を使って数えようとしているあたりで、この噂の広がり具合が推測できるというものだ。
「もういい」
 司馬懿は言った。
「そうですか?
 で、私は従順なタイプじゃないので、司馬懿様の好みから外れちゃいます」
「自覚はあったのか」
「当然じゃないですか。
 慎ましやかで、大人しかったら、護衛武将になりません。
 もうお嫁さんになっています。
 それに、影を踏まないように三歩下がってついていったら、護衛の意味がなくなっちゃいますよ。
 それで、めちゃくちゃ安全圏ですよね。
 やっぱりセクハラとかされたら困ります」
 はハキハキと言う。
「その容姿で?」
 司馬懿は少女の頭の天辺から足のつま先まで、ゆっくりと見分する。
「もしもの話です」
 大真面目には言った。
「そんな酔狂な人間がいるとは思えないがな」
「司馬懿様のお嫁さんになる人も酔狂だと思いますよ。
 だって、従順で、なおかつ司馬懿様の傍にいられるなんて」
「どういう意味だ?」
「フツーの女の人だったら、司馬懿様のことが怖くて近寄れませんよ。
 お淑やかな人ならなおさらです。
 司馬懿様はご自分のウワサをご存知ですか?」
 は尋ねる。
 本当にでしゃばりで、言うことをきかない女だった。
 もう少し頭の回転が悪ければ可愛げがあると言うのに、この娘は賢しらな口をきく。
「お前は私が怖くないのか?」
 司馬懿はを見すえた。
 少女は視線をそらさない。

「はい。
 だって、ウワサじゃなくて本物の司馬懿様を知っていますから。
 怖くありませんよ。
 当然じゃないですか」

 は満面の笑みを浮かべて言った。
 本当に理解しがたい。
 当然だと、言い切られたことは、少しも当たり前のことではない。
 そのことを少女は全く気がついていないのだ。
 純粋な好意が投げかけられる。
 そのことを喜んでしまう己の弱さに、司馬懿は苦笑いする。


 何度、この少女をクビにして、他の護衛武将を選ぼうとしたか。
 馬鹿だと、理解できないと、頭を抱えながらも、クビにできないのは、期待しているからだ。
 この少女なら、自分を裏切らないと。
 きっといつまでも傍にいてくれるのだ……と。


「……そうか」
 司馬懿はわずかに微笑んだ。

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