キス


「司馬懿様!」
 お騒がせ護衛武将・
 司馬懿の書卓をバンと叩いた。
 青年は気にせず、竹簡を読み続ける。

「司馬懿様はキスをしたことがありますか!?」
 は本気で尋ねた。
 冷ややかな視線が突き刺さる。

 うわぁ〜。
 お、怒ってる……。

 が、こんなところでめげてはいられない。
 は司馬懿の回答を持つ。
「お前には関係がないことだろう」
 そのまま司馬懿の視線は、から外れる。
 ホッとするのは確かだが、明らかに無視されたことは問題だった。
「したことがないんですか?」
 は不安げに言う。

 まさか。
 24歳にもなって、したことがないなら、よほど女運がないと言うか。
 ……ありえそうだけど。

 ブチッ

 小さいながら、室内に響いた音。
 それは、司馬懿が手にしていた竹簡をまとめている糸が切れた音だった。
 竹簡がバラバラとほぐれていく。
 不自然に。

 ヤバッ。
 怒っている。
 もしかして、すごく失礼なこと訊いちゃった?
 ああ、本当に経験ないんだ。
 だから……。

「いくらなんでも、それぐらいの経験はある!
 こんな真昼間から尋ねることではないだろう!?」
 司馬懿は怒鳴った。
「昼間じゃなきゃ良いんですか?」
 はきょとんとする。
「誰がそんな話をしている?」
「だって、司馬懿様。
 今、言ったじゃないですか。
 真昼間から尋ねることじゃないって」
「当たり前だろう」
「えー。
 よくわかりません。
 つまり、いつなら質問して良いんですか?」
「それが上官に尋ねることなのか?
 違うだろうが。
 お前と違って、私は暇ではないのだ。
 遊ぶなら他に行け」
 司馬懿は今さらだったが、バラバラになった竹簡を順番どおりに並べ始める。
「遊びじゃありません。
 すっごく、本気なんです。
 司馬懿様じゃなきゃ、ダメなんです」
 は書卓に手をつく。

「経験があるなら、私とキスしてください」

「何のバツゲームだ?」
 石橋を叩いても渡らないと称される司馬懿は、己の護衛武将を見た。
「みんな、したことがあるんですよ。
 私だけしたことがないんです。
 だから、すっごく馬鹿にされたんですよ。
 は、まだまだ子どもねって。
 キスは一人じゃできないから、司馬懿様に頼みに来たんです」
 は言った。
「馬鹿馬鹿しい。
 女どものくだらない話か」
「くだらなくありませんよ。
 よりにもよって、私だけしたことがなかったんですよ。
 この悔しさは、司馬懿様にもわかりません。
 たかが、口と口がくっつくだけなのに。
 したことがないってだけで」
 は今日の昼ごはんの時間の一件を思い出して、拳をぎゅっと握り締める。
「情緒の欠片もない表現だな」
 司馬懿は呆れる。
「してください!」
「断る」
「どうしてですか?」
「後で面倒なことになるのは目に見えている」
 司馬懿はチラリと書卓の端に目をやる。
 水色の弾棊のコマを一瞬見て、目の前の少女を見る。
 それから、バラバラになった竹簡を元に戻す作業に戻る。
「えぇー。
 司馬懿様、ヒドイ〜。
 減るもんじゃないんだから、ちょっとぐらい良いじゃないですか。
 一瞬で終わるんでしょ?
 だったら、良いじゃないですか!」
「ずいぶんと中途半端な知識だな。
 偏りを感じるぞ」
「仕方がないじゃないですか。
 文字が読めないんだから、本を読めないんですよ」
「努力を怠っていることを棚上げするな。
 文字ならある程度、教えているだろう」
「一朝一夕で、スラスラ読めるようになるわけないじゃないですか」
 は唇をとがらせる。
「井蛙に教えるつもりはない」
「セイアって何ですか?」
「自分で調べろ」
「ケチ」
「諦めるんだな。
 それとも、配属替えを願うか?」
 青年は小柄な少女を見た。
「どうしてですか?」
 は小首をかしげる。
「わからぬなら、それで良い」
 つぶやくように司馬懿は言った。
 心なしか、その表情は和やかなものに見えた。
 もちろんお馬鹿な護衛武将のには、全くわからなかったが。
「それで、司馬懿様は私とキスしてくれないんですか?」
「話を元に戻すな。
 ずっと断っているだろうが」
「じゃあ、仕方がありません。
 他の人に頼んできます」
 はためいきをつき、司馬懿に背を向けようとすると
「待て」
 司馬懿は言った。
「何ですか?」
「今、何と言った?」
「へ?
 えーっと、他の人に頼んでくるって、言いました」
「何を頼むつもりだ?」
「だから、キスを」

 バキッ バキッバキッ

 けっこう大きな音が室内にこだました。
 原因は、司馬懿の手元の竹簡だった。
 バラバラになった竹簡は、哀れにも数枚折られた。
 真っ二つどころか、けっこうな細かさに破壊されていく(現在進行形)。

 あれって……重要書類じゃないのかなぁ?
 細かくなっちゃって、もう読めなさそう。
 平気なのかなぁ?
 それよりも、司馬懿様ってけっこう握力あるんだなぁ。
 ビームも危険だけど、これもけっこう脅威かも。

 は暢気なことを考えていた。

「ならん。
 他の者には頼むな!」
「どうしてですか?
 親切な夏侯淵様とか、張遼様とかに頼もうと思ったんですが。
 でも、張コウ様も良いですよね。
 ちょっと怖いけど殿とかも。
 司馬懿様と違って、頼んだら何とかなりそうだと思いませんか?」
 ケロッとは言った。
「絶対に、駄目だ!
 そんなことは……、そうだ。恥さらしだ。
 私の名誉にかかわる。
 だから、他の男に頼むな!
 これは命令だ」
 司馬懿は立ち上がって、宣言した。
「えー。
 それじゃあ、私は一生キスができないんですか?
 それで、みんなに一生馬鹿にされるんですか?
 司馬懿様、横暴すぎますよ」
「お前は、興味本位にしたいだけだろうが!
 恋人もいないくせに、一人前の口を利くな」
「ひ、ヒドイ。
 どうして恋人がいないことを知ってるんですか!?」
「そんなもの、日ごろのお前の行動を見ていればわかる」
「うわぁ。
 そんなに私ってわかりやすいですか?
 ショックですぅ」
 は頬に手を当てる。
「はぁ、じゃあ、また私は馬鹿にされるんですね。
 キスをしたことがないってだけで。
 最近は弓の腕も上がってきて、良い感じなのに。
 たかが、口と口がくっつくだけのことをしたことがないってだけで」
 はうつむく。

 思い出すだけでも辛い。
 昼ごはんの時間は、また明日もやってくるのだ。
 そして、また今日みたいに馬鹿にされるのだ。
 確かにお年頃なのに、浮いた話一つなく、ナンパされたこともなく、一目で恋人いない暦が年齢と同じと見破られてしまうわけで。
 しかも、上官にもそれはもろバレ。
 明日が永遠に来なきゃ良いのに。

 クリッとした大きな瞳が潤み始める。
「司馬懿様の意地悪ぅ」

 ちょっとばかり、ずうずうしいお願いだったかもしれないけど。
 一番仲が良い男性が、司馬懿様しかいなかったんだから。
 しょうがないのに。
 (今、自分の交友関係がすごくせつなくなった)
 恥をしのんで頼みにきたのに。
 しかも、他の人にも頼んじゃダメなんて。
 これから先、キスしたことがないって馬鹿にされ続けて。
 声をかけてくれる男性が一人もいないって、ちょっと異常かもしれない。
 恋人なんて、これから先もできないから……。
 死ぬまでキスができないんだ。

 の涙が零れるほんの一瞬前。
 司馬懿に手招きされた。
 泣きたいのを我慢して、は司馬懿の前に立った。

 は上官を見上げた。
 司馬懿はさして大柄な方ではないのだが、から見ればかなり背が高く見える。
 見上げる時は、ちょっぴり首が痛くなる。
 唐突に、司馬懿はその背をかがめると、の左頬にふれた。
 唇で。

「!」
 は失礼なことこの上なく、思わず身を引いた。
 左頬に手を置く。
 そこだけ熱を持ったように感じる。
「な、何をしたんですか!?」
「口と頬がくっついただけだな」
 司馬懿は鼻で笑った。
 は耳まで赤くなる音を聞いた。
「目をつぶれ。
 望みどおり、キスをしてやる」
「いいえ、結構です!!」
 は横に首を振った。
「したかったのだろう?」
「もう良いです!
 十分です!!
 失礼しました!!!」
 は勢い良く部屋を飛び出した。
 その背に司馬懿の上機嫌な笑い声が聞こえてきたのだが、少女はそれどころではなかった。


 この日から、「キスがしたい」とは言わなくなった。

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