嫉妬 後編


act8 魏。草むらの中

「見たことのある顔でしたね」
 と冷静に陸遜は言った。
「……死ぬかと思いました」
 と姜維。
 その服の裾は、破けている。
「あの距離で矢を射掛けてくるとは、ただの女官ではなさそうです。
 休暇中の、護衛武将でしょうか」
「丞相、何故私はこんなところにいるんでしょう〜」
「聞いてますか、姜維殿。
 燃やしますよ」
 にっこり笑顔で陸遜は危ないことを口走る。
「司馬懿の護衛武将でしょう。
 有名ですよ。
 気難しい司馬懿の護衛武将を長いこと続けていたことで。
 最近、顔を見ていませんでしたが、生きていたんですね」
「さすがは、性懲りもなく北伐しているだけはありますね!
 あ、お気になさらず、続けてください」
「曹魏一の弓使いと言われていて、少なくとも護衛武将の中では一番の射手だったと記憶しています」
「夏侯淵と共にいましたね。
 直伝ですか、……厄介ですね。
 まず、彼女を排除しなければ、情報が集まりそうにありません」
 陸遜は呟き、姜維も同意した。

「やっぱり、呉の燕さんと蜀の諸葛亮の腰ぎんちゃくさんです」

 のー天気な声が背後からかけられた。
 振り返れば、話題の少女が立っていた。
 いくら話に盛り上がっていたとはいえ、まったく気配に気がつかなかった。
「何のご用ですか?」
 無邪気に、小柄な少女は言う。
 判断は陸遜のほうが早かった。
「観光しているんです。
 曹魏ドッキリコースといって、魏の人間の格好で溶け込み、その文化を知ろう。という趣旨なんですよ。
 それで、今は<業β>城見物にやってきたところなんです。
 このコースの最大の特徴は、スパイに勘違いされる危険があることです。
 スリリングでエキサイティングな観光コースだと、各国で大絶賛なんですよ」
 弁舌爽やかに、実に嘘くさいことを言ってのけた。
「そんな観光があるんですか。
 ……スゴイですね」
 少女は真顔で言った。
 姜維も色々な意味で「スゴイ」と思った。
「それで、あなたは?」
 陸遜は尋ねた。
「あ。といいます。
 よろしくお願いします」
 ペコッと少女は頭を下げた。
「私は、陸遜。こちらは姜維殿です」
「陸遜様と、姜維様ですね。
 遠路はるばる、曹魏にようこそ♪」
 は笑顔で言った。
「お近づきの印に、どうぞ」
 陸遜はいつの間にか用意してあった手土産をに手渡した。
 銘菓『孫呉の月』12個入り。
 まん丸なスポンジ生地に、しっとりとしたカスタードクリームが入っている、仙台銘菓のバッタ……もとい類似品である。
「お菓子、くれるんですか!?」
「ええ、あなたに差し上げます」
「ありがとうございます!
 あなたは良い人ですね」
 黒い目をキラキラさせて、は言った。
「私とあなたは友だちですから、当然ですよ」
「はい、お友だちです!」
 少女はうなずいた。
「それで、一つお尋ねしたいことがあるんです」
 陸遜は用件を切り出した。
「あ、はい。何ですか?」
「司馬懿殿に恋人ができたと聞いたんですが、ご存知ですか?」
「こ、恋人ですかー!?」
「はい。
 教えてくださいませんか?」
 姜維も尋ねる。
「えーっと、あ……えへっ。
 たぶん、私のことです」
 照れたように少女は笑った。

 間

 立ち直りが早かったのは、意外にも姜維のほうだった。
 陸遜は、信じられないとぶつくさと呟いていた。
「そうとは知らず、失礼をしました。
 司馬懿……殿、のどこに惹かれたんですか?」
 メモ帳を取り出し、姜維は質問した。
 司馬懿に敬称をつけづらそうにしていたが、むしろ敬称がつけたし扱いだったが、突っ込む人間はいなかった。
「えーと、やさしいところです」
「……やさしいんですか」
 姜維は困惑する。
 はっきり言って想像がつかない。
「お菓子をくれるんですよ〜」
「なるほど」
 律儀な若者はメモ帳にせっせと書きつける。
 メモ帳には質問事項(BY丞相)が書かれており、姜維は上から順に尋ねていくのだった。

act9 魏。司馬懿の屋敷

 夜、眠りにつくわずかな時間。
 床の中でのおしゃべりは、おおむね平和なものだった。
 司馬懿の屋敷の実質一番居心地の良い寝室。
 黒髪の少女は、一日の出来事を語る。
 聞いているのだか、いないのだか、司馬懿は相槌を打つことすら稀である。

「今日は、お友だちが二人できました」
 は言った。
「ほお。性別は?」
 一番初めの問いが、それであった。
 興味を持ってもらえたことが嬉しいらしく、少女は瞳を輝かせる。
「男の人です。
 とても良い人たちで、お菓子をくれたんですよ。
 ……いひゃい」
「食べものにつられたのか」
 司馬懿はの頬を軽く引っ張る。
 これで何度目だ、と青年は苛立つ。
 単純な少女の頭は『食べ物をくれる人=良い人』という公式があった。
 そのわかりやすい公式は、城中の人間が知っていて、隙あらば菓子を与える者が後を絶たない。
 もちろん、少女とお近づきになるためだ。
 司馬懿の恋人だから、よしみを結ぼうとする者は、まだマシだ。
 問題は、少女自身が目的の輩だった。
 どこまでも明るく、突き抜けたように元気な少女は、愛玩に最適なのか、異様にモテる。
 ちょっと変わったペットぐらいの勢いで、構う人間だけではない。
 どこが良いのかわからないが、……妻にしたいと思う馬鹿がいるのだ。
 そんな凡愚は、根絶やしになってしまえば良い、と司馬懿は本気で思っていた。
「明日は出歩くことを禁止する。
 歩くたびに、変なものに引っかかるな」
 青年は独りごちる。
「それは司馬懿様がお散歩に、付き合ってくれなかったからじゃないですか。
 明日こそ、お花を見にいきましょうよ」
 は不満げに言った。
 最近、増えてきた表情だった。
 閉じ込められることが嫌いで、制約されるのも嫌う。
 良妻賢母から対極にいる女だということに、薄々と気がついていたが、教育を与えても効果がないとは思わなかった。
 司馬懿がどんなに枷をはめたところで、少女はちっとも変わらないのだ。
「本当にキレイなお花なんですよ。
 司馬懿様と一緒に見ないと、意味がないんです」
 夜空のような瞳が司馬懿を見つめる。
 じーっと見つめてくるその瞳は、恋愛特有の甘さはなかった。
 あるのは、幼子のような無垢さだった。
「時間ができたらな」
 青年はためいき混じりに言った。
「えへへ。
 早く、明日にならないかなぁ」
 無邪気に少女は笑む。
 男の『友だち』が二人か、と司馬懿は目をすがめる。
 調べ上げなければなるまい。
 とりあえず圧力をかけ、それでもひるまなければ左遷だ。
 害虫駆除は、司馬懿の得意分野だった。


act10 魏。城下の宿屋

 薄暗い一室、清潔なシーツの敷いてある寝台に腰をかけ、二人の若者は顔を突き合わせていた。
 今日、手に入れた情報について、彼らは吟味していた。
 信じられない、と顔に書いてあった。
「司馬懿の好みは不思議ですね。
 私には、わかりません」
 キッパリと陸遜は言う。
「側に置くうちに、情が移ったとか……」
「あの司馬懿ですよ。
 三国一顔色が悪く、まるで冷血トカゲのような男が、……情が移るんですか?
 信じられません!」
 興奮気味に陸遜は言った。
「ですが、あの少女が嘘をついてるようには思いませんが。
 司馬懿について、詳しすぎます。
 ただの護衛武将が、あんなに情報を握っているとしたら……怖いです」
 姜維は言った。
「ええ、そうですね。
 思わず、国許へ帰って、自分の護衛武将を質問攻めにしたくなりました」
 陸遜もうなずいた。
 と名乗った少女は、司馬懿についてやたらと詳しかった。
 好きな食べ物に始まって、好きな香り、機嫌の悪いときのクセ、キレたときの行動パターン、苦手なもの、嫌いなタイプ、作戦を立てるときのクセ、好きな勝ち方。
 本人ですら無自覚であろうわずかなクセまで、ペラペラと語ってくれたのだ。
 別に彼女が恋人じゃなくても『司馬懿のことを知る』という用件は、半ば片付いたも同然だった。
「やはり、恋人なんではないんでしょうか?」
 そういうことにしておきたい姜維は、同意を求める。
 ただの護衛武将が、あんなにも情報通だとしたら、各国の情報は駄々漏れもいいところだった。
「まあ、良く見れば、愛らしい顔立ちをしていましたし。
 強いてあげるのなら、天真爛漫でしたね」
 陸遜は言った。
 想像とは違う『恋人』の出現に、二人そろって驚いてしまったのだ。
 まあ、驚くなというのが無理である。
 司馬懿に恋人ができたというだけで、驚愕の事実だというのに、まさかあんな規格外が出てくるとは、誰も想像しないだろう。


act11 魏。司馬懿の書斎付近

 は司馬懿の書斎の近くの回廊で、日向ぼっこをしていた。
 その視界をふさぐように、薄手の毛布が落ちてくる。
「へ?」
 は驚きながらも、毛布と格闘する。
 ひょこっと顔を出して、見やれば、司馬懿が目の前に立っていた。
「あ、お仕事ですか?
 いってらっしゃいです〜」
「日が落ちる前に、部屋に戻れ」
 司馬懿は言った。
「はーい」
 はニコッと返事をした。
 ためいきを一つつくと、司馬懿は歩き出した。
 少女は、その背を見送る。

 司馬懿様ってやさしいよねぇ。
 えへへ。
 あったかくて、やさしくて、……まるでこの毛布みたい。

 は毛布にくるまりながら、思う。
 誰よりもやさしい、そんな人を好きになって良かった。
 そう思える。
 少女はクスクスと笑う。
 と、また日がかげった。
 いぶかしげに、は顔を上げる。
「こんにちは」
 昨日、友だちになったばかりの二人組みがいた。
「渡し忘れたので、今日はお持ちしました」
 姜維は菓子折りを差し出した。
 銘菓『成都せんべい』しょうゆ味、10個入り。
「司馬懿……、殿は、甘いものを好まないと聞いたので。
 これでしたら、司馬懿……殿、と一緒に食べれますよ」
 突っかかりながら、姜維は言った。
 あの司馬懿を敬称つけて呼ぶのに、慣れることはないらしい。
 つくづく、応用の利かない人間だった。
「ありがとうございます!」
 は成都せんべいを受け取った。
 昨日、孫呉の月を独り占めにしてしまったことを気にしていたのだ。
 いくら司馬懿が甘いものを口にするのは、わずかな機会とはいえ、全部(と言っても、陸遜と姜維の三人で)食べてしまったのだ。
 一つぐらい残しておいて、あげたほうが良かったのかもしれない。
 ちょっとは、甘いものが食べられるんだし。
 孫呉の月はとても美味しかったから。
 と、後悔していたところなので、ナイスタイミングだった。

 おせんべいだったら、司馬懿様も食べられるよね。
 しょうゆ味なら、緑茶のほうが良いかなぁ。
 あ、それなら、まだ封を切ってないお茶があった気がする。
 お屋敷に帰る前に、そのお茶とこのおせんべいを出そうっと。
 そしたら、司馬懿様、喜んでくれるかなぁ〜。

「お隣、良いですか?」
 陸遜は笑顔で尋ねる。
 一夜にして、ショックから立ち直ったらしい。
「はい、どうぞ〜」
「昨日はたいしてお話できずに終わりましたからね。
 今日は、たくさんしゃべっていこうと思います。
 私たちは、友だちですからね」
 陸遜は言う。
「はい、お友だちです」
 はニコッと応じる。
 幼子のような疑いのなさは、間違いなく少女の美点であり、大きすぎる欠点だった。


act12 魏。走廊(ろうか)

「ずいぶんと苛立ってるな」
 原因その1は、いけしゃあしゃあと言った。
「密偵が潜んでいるのは、今に始まったことではないだろう。
 よくあることだ」
 魏の皇帝は続ける。
 黒羽扇を握る手がふるふると震えていることに気がつかず。
「それとも、仲達の元護衛武将と離れているのが気がかかりか?
 束縛しすぎると嫌われるぞ。
 何でも、女が嫌う男の行動bPらしい。
 この間、甄が言っていた」
 曹丕は言った。
 ビンゴである。
 的中もいいところだった。
「少しは、黙ってられないんですか!!」
 司馬懿は怒鳴った。
「では、お前が話せ」
「は?」
「黙々と歩くのは、退屈だ」
 曹丕は言う。
「…………」
 司馬懿は主君の頭を叩きたくなったが我慢した。
 軍議が終わったばかりで、回廊にはまだ人が多い。
 曹丕の私室につくまでの我慢だ。と、己に言い聞かせる。
「仲達よ」
「今度は何ですか?」
「あれは、お前の元護衛武将だな」
 曹丕は階下を指す。
 またほっつき歩いているのか、あの馬鹿は!
 と、思ったが、あくまで表向きは冷静に、司馬懿は欄干に近づき、下を見る。
 院子に人影が3つあった。
 小柄な少女が男二人に囲まれている。
 距離がありすぎて、その会話は聞こえてこないが、切迫した雰囲気ではなかった。
 むしろ、じゃれあっているような空気だった。
 少女が人に囲まれているのは、珍しいことではない。
「見覚えがあるが、この城の人間ではないな。
 あれは――」
 曹丕は言った。
 人影たちは、司馬懿と曹丕に気がつく。
 年が若い方の男が司馬懿を見て、ニヤリと笑った。
 少女に親しげに声をかけ、その肩を馴れ馴れしく抱き、そしてその頬にくちづけた。
「――――!?」
 司馬懿は欄干に手をつき、床を蹴り上げる。
 2階であったが、そのまま飛び降りた。
 だいたい、城壁から飛び降りても、ぴんしゃんしている人間だ。
 これぐらいのことは、たいしたことではなかった。


act13 魏。院子

「よくも……!!」
 司馬懿は怒り心頭状態なので、言葉を詰まらせる。
 鈍感な少女は、男の頬にくちづけを返す。
「はい、良くできました。
 孫呉での挨拶なんですよ」
「変わった習慣なんですね」
 は能天気に言った。
「これは司馬懿殿、お久しぶりですね」
「お邪魔しています。
 司馬懿……殿」
「貴様……!
 何故、ここにいる」
 司馬懿はにらみつける。
「新しい友だちなんです。
 昨日、話していた人たちです。
 陸遜様と、姜維様です!」
 みなぎる緊張感を無視して、少女は言った。
「ええ、仲良くしていただいています」
 陸遜はを抱き込む。
 小柄な少女は、すっぽりと包み込まれてしまう。
「その手を離せ!」
 司馬懿は怒声をあげる。
 普段から、怒鳴ってる人間なので、効果はまったくない。
「友人として、ごくフツーに、接しているだけですよ」
 陸遜は、三国一腹黒いと話題の軍師だった。
 売られた喧嘩は全部買うと言われる孫呉の軍師なのだ。
 逆境には強い、……というよりも楽しんでいる。
「そうですよね」
 陸遜はに振る。
 少女は、困惑を浮かべる。
 この機に及んで、ようやくマズイ状況に置かれていることに気がついたらしい。
「えーと。あのー。
 司馬懿様、怒ってるみたいなんで、手を離してもらえませんか?」
 は言った。
「お断りします。
 あなたはこのまま、孫呉に行くんですからね」

「え!?」

 姜維との声が重なる。
「きっと、孫権様も気に入るでしょう。
 子犬のように可愛らしいあなたでしたら、たぶん大切にしてもらえると思いますよ
 あの方は、ああ見えて、女性に手が早いですからね」
「『きっと』と『たぶん』って、仮定が多すぎです〜!!」
 は言った。
「陸遜殿、抜け駆けは卑怯です!
 私は、丞相から頼まれたんです。
 『司馬懿の恋人がどんな人物なのか、仔細をもらさずに報告してください』と」
「情報なら、もう十分集まったでしょう」
 陸遜は言う。
「目の前で陸遜殿に連れて行かれたと、丞相に知られたら、叱られてしまいます!!」
「黙ってれば、時間稼ぎぐらいはできますよ。
 それとも、燃やされたいですか?」
「丞相〜!
 どうして、私はこんなところにいるんでしょうか〜?」

「愚か者は去れっ」

 紫色のビームが周囲を凪ぐ。
 空気を熱し、下草を焼き焦がす。
 至近距離で発動された無双乱舞に、陸遜の腕の力も緩むというもの。
 さしもの彼でも、恋人を人質に取っている状況で、大技をかますとは計算していない。
 想定外である。
 その一瞬の隙に、少女は腕から逃げ出す。
 軽く急所に、エルボーが入ったのは当事者だけが知っている。
「奴らをひっとらえろ!」
 何事かと集まってきた兵士に、司馬懿は命令する。
 多勢に無勢。
 陸遜と姜維は、杖や槍で囲まれる。
「ダメです!」
 は司馬懿の袖をつかむ。
 不機嫌な青年は、少女をにらむ。
「だって、お友だちなんです!」
 は言った。
「なっ……」
「それは大切にしなければならないな」
 司馬懿の言葉をさえぎり、魏の皇帝は言った。
 兵士たちは動揺する。
 果たしてどちらの命令を聞けばよいのか。
 一般的には皇帝の曹丕の命令が最重要だが、冷静に考えれば司馬懿の命令のほうがもっともだった。
「友だちは、大切だ。
 真の友情の前では、国境など無意味。
 そうだろう、仲達よ。
 友情ほど尊いものは、この世にあるのだろうか?
 断じてない」
 昼間っから酒でも飲んだのか、かなり酔ってる口調だった。
 彼が友だちが一人もいない、というのが理由の一つだったりするのかもしれない。
「客人は丁重にお連れしろ」
 司馬懿は苛立ちながら言う。
 緊張感は緩み、安堵のためいきがつかれた。
「もちろん、牢獄と言う名の客室にな」
 青年は上機嫌に言った。
「えぇーー!
 それじゃあ、意味がありませんよぉ!!」
「やっぱり喰えない人間ですね。
 あ、冷血トカゲは人間ではありませんね」
「丞相〜、丞相〜!!」
 三者三様の悲鳴が上がる。
「仲達よ」
「あれこそが密偵でしょう。
 尋問しなければなりません。
 ……連れて行け」
 司馬懿は兵士に命令した。
 陸遜と姜維は捕縛され、引きずられるように連れて行かれた。
 少女は不満なのか、うつむいた。
 それを一瞥してから、司馬懿は主君に向き直る。
「他の武将の手前、逃がしたら何と言われるか。
 情報が漏洩してからでは遅いのです。
 殿。
 もし、先日の甄姫様との夫婦喧嘩の全容が知られたら、どうなさいますか?」
「それは……。
 確かに、尋問は重要だな」
 曹丕はあっさりと納得した。
「……司馬懿様には、お茶淹れてあげません!!」
 甲高い声を上げると、少女は司馬懿の元から走り去る。
 それを追いかけるような愚にもつかないことを、当然青年がするはずもなかった。


act14 魏。司馬懿の書斎

 見慣れた部屋の片隅に小さな背があった。
 小さい体をさら小さくして、部屋の隅で背を丸めていた。
 少女が逃げられる場所は、ほんの少ししかない。
 こうやって、司馬懿の書斎の角で、縮こまってるしかないのだ。
「馬鹿め」
 司馬懿は言った。
「友だちなんです」
 少女は振り向かずに言う。
「騙されおって」
 青年はズカズカと歩み寄る。
「それでも、友だちです」
 は言った。
「忘れ物だ」
 回廊に畳んであった毛布をその背にかけてやる。
 黒い瞳が司馬懿を見上げた。
「奴らは、国外追放する。
 それが決まりだからな」
 司馬懿は言った。
「じゃあ、殺したりはしないんですね!!」
 少女は顔をパッと輝かせる。
「殺してやりたいぐらいだがな」
「良かったぁ。
 司馬懿様のこと嫌いになる理由ができなくって」
 花がほころぶように、少女は笑む。
 呆気に取られ、それから司馬懿は微苦笑した。
 どうにも敵わない。
 やりづらくて仕方がない。
「時間ができた」
 青年は少女に手を差し伸べる。
「え?
 あ、はい!!」
 はその手を取って立ち上がる。
「キレイなお花なんですよ。
 真っ白で、まるでお月さまの光を集めたように、キレイなんです。
 あ。そうだ。
 司馬懿様、しゃがんでください」
「何だ?」
 立ち止まると、不意打ちのように頬に柔らかな感触がした。
「孫呉では嬉しかったり、お礼が言いたいときは、こんな風にするんだそうですよ」
 無防備に少女は言う。
「他の人間にはするな」
 司馬懿は言った。
「どうしてですか?」

「私が不機嫌になるからだ」

「はい♪」
 幼子のように、物知らずな少女はうなずいた。


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