24:苦

 きっと気がついていない。
 だから、こっちから言わない。


 この時期ぐらいだろうか。
 女の子が好きそうなお店に、男がいても目立たないのは。
 ファンシーショップや、美味しいと評判のケーキ屋さんに、真剣な顔が並ぶ。
 ほんの一月前、女の子が同じ顔をして、紳士服売り場や製菓売り場にいたように。
 たった数週間で、悩む側の性別が変わった。
 恒例行事とはいえ、けっこう笑える。

 紫の瞳の少女は笑おうとして、失敗した。
 形の良い眉はつりあがったままだし、その唇は不満そうだった。

 普通であったら、楽しいホワイトデー。
 お祭りごとが大好きで、騒ぐことはもっと好き。
 そんな彼女だったから、自分だけ不機嫌なのは少し……いや、かなり不服だった。
 レイチェルはピタッと立ち止まる。
「あー、もう!
 よし。
 今日は、やめ。
 たまには休みも必要でしょ」
 声に出して、自分の気持ちに方向づけをする。
 
 このまま帰っても、良い研究はできそうにない。
 むしろ、あの鈍感男を見た日には、怒鳴ってしまいそうだった。
 どこか子ども扱いしてくれる男性に、かんしゃくをぶちまけたら、どうなるのか。
 考えてみなくてもわかる。
 そんなわかりきった未来を演じるつもりはない。

 レイチェルは研究室とは逆方向へ歩き出した。
 何故か思い出すのは、一月前の出来事のこと。

    ◇◆◇◆◇

「エルンスト。
 どう、はかどってる?」
 レイチェルは、エルンストのデスクに近づいた。
 いつになく仕事に追われている。
 珍しいこともあるものだ、と少女は勝手に空いている椅子を引っ張ってきて座る。
 文句の代わりのためいき一つでも聞けると思ったが、本当に忙しいらしい。
 白く長い指先は、キーボードの上を走っている。
 眼鏡の奥のペールグリーンの瞳は、モニターに釘づけだ。
 だから、レイチェルのほうがためいきをついた。

 規則正しいタイピングの音が止まった。
 しばらくの間が空いて
「レイチェル、いつこちらに?」
 エルンストは少女のほうを向いた。
「つい、さっき。
 気がついてもらえないかと思ったよ」
「失礼。
 仕事に集中していたものですから」
「昼休みまで仕事なんて熱心だね。
 この後、用事でもあるの?」
「いえ、特にはありません」

「ふーん。
 それにしては、ずいぶんと仕事に追われてるみたいだったけど。
 エルンストがためこんだとは思えないし。
 どうしたの? これ」
 レイチェルは、デスクの上に積み上げられているファイルを指す。
 一番上のものを一冊取り上げ、開く。
 見慣れた書類たちが閉じられている。
「何故だか、今日に限って、肩代わりを頼まれたんです。
 埋め合わせをすると言われれば、特に断る理由はありませんから、引き受けました」
 エルンストは言った。
 レイチェルは顔を上げる。
 チタンフレームの奥に収まった瞳は、本気のようだった。
 少女は呆気に取られ、それから微苦笑した。

「エルンストらしい。
 あとで、差し入れ持ってきてあげるよ。
 このままだと、昼抜きで仕事でしょ?
 食べないと脳に栄養いかなくて、能率が下がるんだから」
「ありがとうございます。
 今日はずいぶんと親切ですね」
「お人よしのエルンストに、優しいワタシが施してあげる。
 ちょっと気分が良いからね!」
「そうみたいですね」
 エルンストは言った。


 その後レイチェルは、大手メーカーの栄養補助食品の『チョコレート』味と野菜ジュースを差し入れた。
 2月14日に、他人の分まで仕事をしている馬鹿な男性のために。

   ◇◆◇◆◇

 レイチェルの世界は意外と狭い。
 研究院の小さな庭の片隅に置かれたベンチに、少女は座っていた。
 今日のような日に遊んでくれる人間などいるはずもなく。
 ――いたとしても、そんなタイプの人間は今の時間、研究に勤しんでいるはずだ。
 少女は……一人ぼっちで、空を見上げていた。
 真っ白な流れる雲を見ていると、マシュマロや綿菓子を連想してしまう。
 気分転換しているつもりが、まったくリフレッシュできていなかった。
 レイチェルはうつむき、ためいきをついた。

 時間が無駄に流れていっているような気がしてならない。
 かと言って、研究室に戻る気はならない。
 エルンストのところへ行くのは、もっと嫌だった。
 どこもダメなんて……!

 フッと、かげった。
 雲が太陽を隠したのだろうか、と少女は顔を上げた。
「!」
 紫の瞳がさらに大きくなる。
「な、何でこんなところにいるのよ!」
「通りすがりです」
 エルンストは小脇に抱えたファイルを示す。
 これから報告書を提出に行くのだろう。
 確かに、通り道だった。
「お疲れのようですね」
 反論するのも、肯定するのも嫌な問いかけだった。
 レイチェルは口を尖らせる。
「手を出してください」
「は?」

 パラパラ パラ

 それは太陽の光を受けて降ってくる。
「わ」
 色とりどりのキャンディが、少女の膝の上に並ぶ。
 その一つをつまみあげる。
「これは?」
「疲労回復には、糖分補給が効果的です。
 この間のお礼です」
「え?」
「差し入れをくださったでしょう?」
「ああ、あれね」
 レイチェルは理解した。

 チョコレートをあげて、キャンディが返ってきたんだし。
 立派な3月14日だよね!

「ありがとう!」
 少女はニコッと笑った。


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