23.動

 何かが壊れる音がした。

 目の前が赤く染まる。
 それ自体は何も珍しいことではない。
 血が視界を奪う。
 鮮やかな赤は、生ぬるい。
 体温に似た温度だった。
 宙に弧を描きながら、散っていく。
 鉄に似た独特な香りと共に、それは流れていく。
 
 ここは戦場だ。
 人を殺す者と、人に殺される者しか存在しない。
 己は運良く殺す側に回っているが、いつ逆転してもおかしくない。
 死への覚悟は、とっくの昔にできている。
 
 では、この震えは何だ。
 胸から込みあがってくる息は何だ。
 今にも裂けそうな喉の奥にある――。

「甄ーー!!」

 曹丕は叫んだ。
 平素の青年を知る者がいれば、驚いて立ちすくむ、そんな絶叫だった。
 息と言うものをすべて吐き出して、声の限りで叫べばそんな声になるだろうか。
 耳を覆いたくなるほどの、悲鳴だった。
 強すぎる光に目を開けていらないように、その声は強すぎた。
 周囲にいた敵兵のある者は、身をすくませ、その場に座り込み、あるいは逃げ出した。
 その場の支配者は、紛れもなく青年だった。

 一呼吸。

 曹丕は双刃剣を投げ出し、腕を広げた。
 血を見て、名を呼び、抱きとめるまでの時間は、わずか一呼吸分。
 蝸牛が這うように、時間は遅々として進まなかった。
「我が君。
 ご無事でよかった……です、わ」
 飴色の瞳が曹丕を見つめ、嬉しそうに笑みの形になる。
 時間は自分の職分を思い出したようだった。
 淀みなく流れていく。
 血はゆっくりとしたたっていく。
 曹丕の手を汚し、戦袍を濡らし、それでも足りぬと地を潤す。

「甄」
 青年は妻の名を呼ぶ。
 震えは収まらず、思考は拡散し、動揺は大きくなる。
 ほの温かい、ぬるりとした感触が心を侵食していく。
 炎よりも、花よりも、強烈な赤。
 酩酊を引き起こすような香り。
「お退きください」
 このような場面で、千と言われる台詞。
 このような状況で、万と言われた台詞。
 それを、今、自分の耳が聞く。
「私を置いて、早く!」
 最期の力を振り絞るように、甄姫は言う。
 曹丕の耳は、すでに聞いていなかった。
 やがて、抱えていた体は重くなった。

「よくも傷つけたな!
 光栄に思うがいい。
 直々に切り刻んでくれる!!」
 青年の叫びは、そのまま気となり、大地を制す。
 曹丕にあるのは、怒りでもない、憎しみでもない。
 義務のように体を突き動かすその情動に、名前をつけることなどできない。
 強い執着、激しい恋着。
 今まで抑圧されていた感情が吹き荒れる。

 戦意ある者など、すでにいない場所で一方的な殺戮が始まる。
 無間地獄が大地に再現される。
 情というものは存在せず、慈悲という言葉もまた存在しなかった。
 悲惨と片付けるには痛ましく、凄惨という言葉では表せない。
 流れ去ろうとしている一つの命分の血の、優に数倍の血で水たまりができた。
 ただ一人の男の手によって。

 何かが壊れる音を聞いた。
 それは自分の中のたがであったかもしれないし、何か大切なものが破壊された音かもしれない。


お題配布元:[30*WORDS] 真・三國無双TOPへ戻る