22.操

 この部屋には、香りがない。
 曹丕は、ここに来るたびに思う。
 部屋に寝起きをする者がいれば、その者の好む香りになっていくものだ。
 使われていない部屋は、使われていない香りになる。
 
 この部屋には、香りがない。

 
「どうなさいましたの?」
 艶やかな笑みを浮かべて佳人が問う。
「我が君?」
 甘く優しい声が誘う。
 月光のように白い手が青年に伸び、その体にふれようとする。
 曹丕はその手をつかんだ。
 女の飴色の瞳は雄弁だった。
 喜びでもなく、驚きでもなく、その瞳を彩った光は落胆。
 青年は、春にほころぶ花のような香りがする体を抱き寄せる。
 糸の切れた操り人形のように、カクンと力の抜けたそれ。
 無抵抗な体をより強く抱きしめる。
 やがて、やわやわと背に回される細い腕。
 押し当てられた柔らかな胸の重みとあたたかさ。
 安堵のような吐息が青年の首筋をくすぐる。

 夫婦になったばかりの者たちの抱擁……に見えるだろう。
 穏やかな空気の底に、ぎらつく刃。
 圧倒的な不穏が、何食わぬ顔で平穏に寄り添う。
 まるで、腕の中の女のようにしたたかに。
 白いおとがいをつかみ、顔を上げさせる。

「女が装うのは、その表情を気取られないためだと聞いた」
「まあ、面白いことをおっしゃいますのね」
 紅がはかれた唇が笑みを形作る。
「そなたは、どうだ?」
「どうと言われましても、意味がわかりませんわ」
 女は蒙昧な者たちのように、困ったような、機嫌をとろうとするような口調で言う。
 その瞳が裏切っていた。
 真っ直ぐと曹丕を見つめる、その意志の強さが言葉に反していた。

「木の葉を隠すとき、最も適している場所を知っているか?」
 曹丕は問いを変えた。
「いえ、知りませんわ」
「森だ。
 もし森がなければ、木の葉一枚のために森を作る」
「確かに、森の中に木の葉が落ちていても、何の不思議もございませんわね。
 ですが、馬鹿げていますわ。
 たった一枚の木の葉のために、森を作ってしまうなんて」
 甄姫は言った。

「次の戦は、そなたも来るがいい。
 久しぶりの大きな戦だ。
 そろそろ日常に飽いていた頃合だろう?」
 曹丕の言葉に、女の肩がわずかに上下した。
「私の傍で、笛の音を存分に響かせるといい」
「楽しみですわ」
 そう言った女の目は生き生きとしていた。
 狩をする肉食動物のような瞳の輝き。

 殺されてもいい。
 これほどまでの強い感情で、熱心に思われるのならば。
 殺されてもいい。
 自分で選びとった運命だ。
 諾々と殺されるのではなく、殺されることを許容する。
 死と生は、紙の表と裏。
 薄い境界線で、パッとひるがえる。
 死を望むことで、生きていることを強く実感した。
 希薄になり、うつろになりがちな日常が色を持つ。

「次の戦はいつですの?」
 甄姫は嫣然と尋ねる。
「もうすぐだ」
 曹丕は言った。

 どちらが先であろう。
 己が死ぬのと、香りを決めかねているこの部屋の香りが定まるのと。
 訪れる度に変わる部屋の香り。
 移り気と呼ぶには、やや狂気をはらんだそれ。
 長居する気がないと言外にささやく香りたち。
 部屋のしつらえは、主の心を写す鏡。

 この部屋には、定まった香りがない。


お題配布元:[30*WORDS] 真・三國無双TOPへ戻る