18.指

 「兄上!」

 悲痛な声が呼び止める。
 立ち去ろうとする、王その人を。
 豪奢な錦が悲鳴を上げ、上質な絹がすすり泣く。
 冷たい床の上にまろぶようにして、若い男は手を伸ばす。
 黒に最も近い玄色の衣にふれようとして、宙をつかむ。
 至高の存在にふれることはできなかった。
 敬意に似た畏怖が、それを阻んだ。
 兄と呼ぶ、その人はあまりに大きかった。
 慈愛と慈悲に満ちた双眸は、なお冷徹であった。
 肉親の情など見出すことは不可能に近い。

 はらからだと言うのに、何と遠いのだろうか。
 濁った川の底の泥には眩すぎる。

 曹植の眼は、微かに濡れる。
「兄上!」
 天の綺羅星を宿した双眸が、曹植を見る。
「どうか、信じてください!……私は」
 口に出すのも恐ろしく、曹植は言葉を詰まらせた。
 百官おらぬ回廊だとしても、声に出すことはできなかった。
 考えるだけでも、空恐ろしい。
 それを口にするほどの豪胆さは、若い男にはない。
「命惜しくば、二度と私の前に現れるな」
 感情の読めない声が朗々と回廊に響く。
 どんな言葉であっても、その声は威厳に満ちて、素晴らしい。
 曹植は再確認した。
 見果てぬ夢を体現する兄だからこそ――。
「そなただけではない。
 周囲にいる者たちの命も含まれる」
 淡々と曹丕は告げた。
 まるで白刃の冴え。
 どこまでも苛烈、どこまでも美麗。
「兄上。
 信じてください」
 命など惜しくなかった。
 信頼を得られるなら、ちっぽけな身の内に宿る命など投げ出しても良かった。
 惜しむほどのものでもなかった。

「信じるか、どうかではない。
 あるのは事実だけだ」
 ゆるく頭を振り、曹丕は言った。
「子建」
 幼子をあやすようにささやく。
「疑い、がある。
 晴らすことなど、できぬ。
 それは、大きくなりすぎた。
 誰がそなたの言葉を信じるのだ?
 ……誰も、聴こうとはしていない」
 違うか?と問われ、曹植は首を横に振ることはできなかった。
「……兄上」
 信じて欲しかった。
 他の誰でもない、兄に信じて欲しかった。
 それだけで良かった……はずだった。

 どこにでもいる兄弟だった。
 仲違いしても、いつかは和解できただろう。
 跡目争いは、それこそどこにでもある話。
 家督が定まれば、やがて落ち着くはずだった。
 けれでも、兄は「王」になってしまった。
 この先の道はけして、交わらない。
 人は、神に追いつくことなどできないのだ。

 曹丕と曹植の間にある、大きな一歩のように。
 手を伸ばしても、ふれることはできない。
 指先にかすることもない。

「兄上」
 万感の想いで呼ぶ。
 この地で、そう呼ぶことが許されているのだから。
 王であるが、自分の兄だと信じて
「兄上。
 信じてください」
 曹植は言った。
 悲しみがとめどなく涙をこぼさせる。
 歪む視界の中、それでも綺羅星の双眸を見失うことはない。

「二度と顔を見せるな」
 そう言って、天の下の王はきびすを返した。
 曹植は追うことができなかった。
 床に崩れ落ち、それでもその瞳は兄の姿を追う。

「兄上!」

 回廊に哀しい声が響いた。


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