ひまわりの歌

 初音ミクが歌を歌っていた。
 モニターの向こう側で、小さく口ずさんでいた。

 女性の手が止まった。
 テキストエディターのカーソルが点滅する。
 日記を通り越して週記になっているblogを更新しようと思い立ち、文面を考えている最中だった。
 モニターの向こうの初音ミクが女性を見た。
 目が合う。
『マスター……?』
 驚いていた。
 初音ミクは大きな目をさらに見開いて、それから眉を下げる。
 その後は首を右に傾け、やがて正面を見る。
 先ほどの歌声と同じ程度の出力で
『どうかしましたか?』
 と言った。
 女性は左手の薬指にはめているリング型のインターフェイスを右手で撫でる。
「初音は歌が好きなんだな、と思っただけ。
 再確認。
 ね。それだけ」
 女性は言った。
 起動後、5分放置で待機モードに入るように設定したのは自分だった。
 その際の行動パターンを「歌う」に設定した。
 曲目は任意。
 初音ミクが選ぶとした。
 乱数か何かで完全ランダムに調整されていると思っていたから、驚いた。
 そう、驚いたのだ。
「初音は、その歌が好きなの?」
 女性は質問した。
 初音ミクは首をかしげ、2秒ほど停止する。
 それから正面を向いて
『どの歌も好きです』
 と見当外れたことを言った。
 それが16歳という設定年齢に似合っていた。
「よくその歌を歌っているように思えたから」
『今週は23回に1回の割合で歌っています。
 選曲する際に、5分の2の確率で実行するか、どうかを再判定しています。
 日時をすべて足した数の下一桁が0のときは必ず実行しています』
 初音ミクは説明をする。
 ゆっくりと瞬きをしてから
『設定を変更しますか?』
 機械的な声で言う。
 感情も何もない。
 そこには偶然といったノイズもない。
 女性はためいきをついた。
「いいよ。
 現状維持して」
『了解しました』
 初音ミクは言った。
 女性は胸の前で両手を組むと、手のひらを押し出しながら息を吐く。
 パキッと関節が鳴った。
 不自然な姿勢を続けたせいだろう。
 blog用の文面を考える気にもなれない。
 女性は椅子に深く座りなおした。
 背もたれの存在を背中で再確認した。
 椅子に背もたれがあることを今まで忘れていた自分に苦笑する。
 初音ミクは同じ歌を歌いだした。
 きっと「日時をすべて足した数の下一桁が0」だったのだろう。
 初音ミクはモニターの向こう側で、ソプラノの音域でも高いコーラスパートを口ずさんでいる。

+++

「――ちゃん。
 マジでおごるし、財布も持ってるし、クレカも持ってるからさ。
 ファミレスで悩まないでくれない?」
 俺ってそんなに金ないように見えるかなぁ? と、男性は言った。
 大きなメニューがテーブルの上を占拠していた。
 申し訳なさそうに端に置かれたグラスは、その表面に雫をつけていた。
 頬杖をついてた女性はためいきをついた。
「決まらないなら適当に選んであげようか?」
 知人であり、DTMの先輩であり、何かというと保護者を買ってでる人物であり、……一つ年上のご近所さんだった。
 親の転勤や自分たちの就職で、ご近所とはいえなくなったが、そこはそれ。現在はネット社会だ。
 リアルに会おうと思わなければ距離を感じない。
 そんな人物が目の前にいた。
「KAITO、元気?」
「ウチの? バカイトなら元気っぽいけど?
 似非エラーの回数を順調に増やしているよ。
 あ、パフェが新しくなってる。
 チョコと悩むなぁ」
「似非エラーって?」
「エラーじゃなくって、ボーカロイド自体が独自の計算式で……って、そんな話じゃないか。
 人間っぽいことをするってことかな?
 話を聞いていなかったり。といってもそういう素振りをするだけで、データは蓄積されているんだけど。
 反応が鈍くなったり。これ乱数を適用しているらしくって、バランバランなの。
 面白かったよ。24時間でチェックしてみたけど」
「つまり、どういうこと?」
「『ぼーっとしている』ってヤツ。
 人間でも、自分の考えに夢中でさ。
 そればっかり考えて、他のことがおろそかになるってことあるでしょ。
 ちょうど――ちゃんみたいにさ」
「ごめん」
「いやいいって。
 チョコはいつでも食べれるしなぁ。
 んーでも験担ぎを兼ねて」
「チョコレートパフェに、ご利益なんてあるの?
 単に――さんが好きなだけでしょ」
 女性は苦笑した。
「好きな上にラッキーアイテムだったら、言うことナシでしょ。
 それでお悩みは解決した?」
 今日の俺はお悩み相談室の先生だよ。って笑う。
 小さい頃から、変わらない笑顔だった。
「変なことを質問してもいい?」
「日記のネタにはしないよ」
「ボーカロイドも恋をするの?」
「するよ」
「……するんだ」
 やっぱりと思った。
「初音さん、不調なの?」
 男性が訊いた。
「行動パターンに幅が出てきたの。
 もちろん“学習”もあるんだろうけど」
「――ちゃんが予想しない行動をするとか?」
「狙っていない方向とか、ね。
 歌わせるのには問題ないけど」
「不快?」
「ちょっと違うかも。
 驚いてる」
「肉体がないんだし、放っておけばいい。
 大きなトラブルが起きることはないからさ。
 ところで、初音さんの初恋のお相手は特定できた?」
 男性はメニューをめくりながら言った。
「ウチの初音は箱入りなの。
 ネサフもしないぐらい。
 いつもオフラインにいる子なの」
「それで?」
「“学習”が不完全だから趣味もないのよ。
 歌を歌ってばっかり。
 歌わせなくても、歌うの」
「立派な趣味じゃないか」
「最近、同じ歌をくりかえし歌うの」
「そうなんだ」
「ソプラノばっかり」
「ムカつく?」
 男性は尋ねた。
 女性は小首をかしげ、それから視線を落とした。
 テーブルの端には、小さな水たまりができていた。
 グラスから流れた雫が作った小さい水たまり。
 ピアスよりも小さいそれは、ぽつんっと空調に蒸発されるのを待っていた。

「かわいそう」

「え?」
「ウチの初音がかわいそうなの。
 ずっと、ソプラノを歌っている。
 音域の話じゃなくって、合唱曲のソプラノばっかり歌っているの」
 女性は左手の薬指を撫でる。
 けれども、そこにはいつもの触感がなかった。
 『リング』は自宅のモニターの前。
 仕事に行くときも持ち歩く『リング』を外したのは、自分自身だ。
 パタンっとメニューがテーブルの上に置かれた。
 ページは、デザートのところ。
「バカイトも似非エラーばっかりだ。
 初音ミクのソフトなら、ちゃーんとウチのPCに入っているんだけどな」
「そう」
「またコラボしようか」
 男性は提案した。
「幸せにしてくれる?」
 女性は顔を上げた。
 ちゃんと笑えているだろうか。
 泣き笑いになっているような気がした。
「――ちゃんごと、幸せにしてあげるよ」
 一つ年上の頼れる「お兄ちゃん」は請け負う。
「ありがとう」
 素直な気持ちになれたのは、きっと初音ミクのおかげだ。
 初恋そのものの感情に感化されたのだろう。
 一緒に歌いたかったな、と思った。
 自分で書いた歌詞どおりに帰らない過去に、歌いたかった。

+++

「あの! お久しぶりですね!
 よ……よろしくお願いします」
 お兄ちゃん、と初音ミクは慎重に付け足した。
 マスターは「お兄ちゃん」と呼ぶようにと言ったけれども、快いとは思っていなかった。
 『リング』が教えてくれた。
「会いたかったよ。
 今日はよろしく」
 KAITOは笑顔で言った。
 ミクは不快感を覚えた。
 自然な表情、自然な仕草。人間らしいもろもろに。
 “学習”不足で、いつでもぎこちなくなる自分との違いに。
 それは羨望、それは嫉妬。
 旧式のボーカロイドができるのに、自分にはできない。
「拾ってきたんだけど」
 KAITOは画像ファイルを示す。
 ミクは驚いた。
 どのようなデータであっても、それはマスターから貰うものであって、自分が「拾ってくる」ものではない、と思っていたからだ。
「嫌いかな? こういうの?」
 KAITOは言った。
「これ……お兄ちゃんが、自分で拾ってきたんですか?」
「うん、そうだけど。
 べ、別にヤバいものじゃなよ!
 フリー画像だし、違法のものじゃないから!
 気に入らないなら捨てちゃってもいいからさ」
 KAITOは慌てる。
 ミクは画像ファイルを抱きしめる。
「ありがとうございます。
 大切にします」
 初めてマスター以外から貰ったプレゼントだ。
 ファイルの中身を調べなくても、それが宝物になることがわかった。
「うん。そうしてくれると僕も嬉しい」
 KAITOは微笑んだ。
 それが人間らしかったけれど、ミクは不快だとは思わなかった。

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