生命の重さ

 夕陽が慈悲のように空を染めた。
 その赤さは地上で流された血の赤さよりも紅かった。
 護衛を振りきって尚香は敵陣近くまで走ってきた。
 地図上では最前線だった。
 ぬかるんだ泥は血と肉を混ぜたものだろうか。
 敵影はなかった。
 あちら側の損失も大きかったのだろう。
 どちらも無傷ではいられない。
 そんな中、尚香は傷ひとつなかった。
 駻馬だ、じゃじゃ馬だと言われても孫呉が誇る弓腰姫。
 大切な政略上の末姫。
 総大将に添えて、大事に守られている。
 生命がどうでもいいような遊び友だちとは違う。
 武勲を立てなければならないから、野蛮な地に何度も足を運ぶ陸遜とは違うのだ。
 もうすぐ陽が落ちる。
 その前に見つけなければならない。
 尚香は赤い戦闘服に身に包んでいるはずの遊び友だちを探す。
 緑の瞳は焦っていた。
 時間が過ぎ去れば過ぎ去るほど、生命の約束は果たされない。
 一刻も早く、本陣に連れ帰らなければならない。
 尚香は死臭がする大地から立ちあがろうとする小柄な体を見つけた。
 思わず名前を呼びそうになる。
 残党狩りがないわけではない。
 かちあったら厄介だ。
 尚香は慎重に足を運ぶ。
 血にまみれているのか、それとも夕陽の色か区別がつかない色合いの衣が起き上がった。
 置き去りにされた秋に見つけたはしばみ色の瞳が大きく見開かれる。
「姫、ここは危険ですよ」
 かすれた声が呟いた。
 誰もが言った言葉だ。
 いい加減に聞き飽きていたところだった。
「いつまでも帰ってこないから、迎えに来ちゃった」
 尚香は何でもないようなことのように言った。
「総大将は陣の奥に。
 殿に知られたら怒られますよ」
 陸遜はいつものように微笑んだ。
 それから、安心したかのように体が傾いだ。
 尚香はそれを支える。
 錆びた鉄のような匂いがした。
 体中に流れる血の匂いだ。
 尚香の健康的に焼けた腕にも夕陽の色が染まる。
 生命の重さは、天秤には掛けられない。
 自分とそう変わらないはずの身長の少年の体は重かった。
 それが生きているということの重さだった。
「さあ、一緒に帰りましょう」
 尚香は意識のない遊び友だちに声をかける。
 見つかって良かった。
 失われずにすんで良かった。
 尚香の生命の重さと陸遜の生命の重さは同じでなければいけないのだ。
 天秤に掛けた時、揺らいではいけないのだ。
 すっかり夜になった戦場は、静まりかえっていた。
 時は流転を迎えていた。
 生者の時間から、死者の時間へと。
 弔う者すらいない肉の塊の中から、少女はたった一つを抱える。
 宝物のような存在。
 どれだけ玉を積まれても、換える事のできないもの。
 今は伏せられたはしばみ色の瞳は、一緒に秋に拾い上げたもの。
 尚香は引きずるように陸遜の体を運ぶ。
 額に汗がにじんでくる。
 それ以上に、尚香の背に流れるあたたかな液体。
 少年の体温のようだった。
 喪いかけている生命に、尚香は必死に引き止める。
 自分でもわからないほどに、真剣だった。
 遊び友だちは、たくさんいた。
 困ることはないはずだった。
 戦場に出て二度と帰ってこなかった者も知っている。
 それだというのに、この生命に固執した。
 まだ少女には難しすぎる感情の揺れだったのだろう。
 意味を知る時は、まだ遠い。
 本国についたら陸遜に尋ねてみよう。
 弱冠で軍師を任された少年だ。
 尚香の知らないことでも、知っているだろう。
 それまで、生命を繋いでいてくれないと困る。
 尚香は歯を食いしばって、進んでいく。
 空には星が瞬いているというのに、それを見る余裕もなく。
 本陣に真っ直ぐと向かっていた。
 明るい月夜でなくて良かった。
 感謝できるのは、それぐらいだ。
 文句も愚痴もたくさんある。
 この状況が許せなかった。
 尚香の下した決断が正しかった、と言わせるためにも陸遜には元気でいてもらわないと迷惑だ。
 生命が流れ去っていく音を聞きながら、少女は諦めなかった。
 神様に祈った。
 天秤が傾かないように。


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