それで、良かった

「白よ!」
「私は赤だと思います」
「夏に咲いていたのは、白。
 絶対に白」
「……孫権様のご趣味からいって、赤に間違いないと思うのですが」
「あら、陸遜。
 私の記憶違いだっていうの?」
「いえ、そういうわけでは……。
 どこかと勘違いをしているのでは――」
「白!
 ここだけ、白だったの。
 だから、ちゃんと覚えてるんだから」
「ですが」
「……そこまで言うなら、こうしましょ。
 間違っていたほうが、当たっていたほうの言うことを何でも一つだけ聞くの」
「何でも、ですか?」
「自信がないなら、良いのよ。
 勝負しなくっても」
「はぁ。
 わかりました。
 勝負いたしましょう」
「約束よ。
 ちゃんと覚えていてね」
「姫こそ」
「私は誰かさんたちと違って、忘れたりはしないんだから」
「姫との約束です。
 私は、忘れたりはしませんよ」
「咲いたら見にきましょう。
 もちろん、一番にね」
「良いですね」

   ◇◆◇◆◇

 空を覆うように広がった緑の隙間から、目を射るような激しい日差しが降り注ぐ。
 影まで地面に縫いつけられそうなほど、強い光。
 それを弾くように花が咲いた。
 陽光を物ともせずに、水面から顔を出した蕾の色は、尚香の願いどおりに濃くなることはなかった。
 花弁の先まで『白』。
 ポンと咲いた。
 呪いでもかかっていたかのように、大きな蕾はそのまま大きな花になった。
 白い花たちが池いっぱいに、涼しげにたたずむ。
 それは少女が望んだとおりの景色だった。

「花が咲いたわよ!
 り……く」
 墨の香りで満たされた部屋に、尚香は飛び込んだ。
 勝利宣言をするはずだった少女は、表情を引き締める。
 名は最後までつづられなかった。
 呼んでも応えてくれる人はいない。
 だから、尚香は最後の音まで口にすることはできなかった。
 日当たりが良いとはいえない部屋は、妙にカランとしていた。
 落雷であっても吸いこんでしまうような、そんな雰囲気を漂わせていた。
 常に広げられていた竹簡は書棚にすべて収まり、筆や硯は主の帰りを書卓の隅のほうで待っていた。
 尚香はためいきになりそうだった気持ちを無理やり飲みこんだ。
「私が勝ったのに……」
 まるで宮殿を歩く女官たちのように、それにそっと近づく。
 主不在の書卓に手を伸ばす。
 今頃、遊び友だちは尚香の知らない誰かと一緒に、尚香の知らない誰かと命がけの勝負をしているはずだ。
 国の名を背負って。
 負けるわけにはいかない勝負をしている。
「何でも言うことを聞くって。
 ……約束したのに」
 あの日、約束した。

「どうしていないのよ!」

 尚香は書卓を叩いた。
 ドンッ! と指が痛くなるような音が耳に響いた。
 それ以外は何も変わらない。
 差し込まない光も、停滞する風も、積もる埃も。
 染みついた墨の香りまで。
 陸遜がいないだけで、ここには平穏があって、千年先まで変わる予定がないような顔をしていた。
 少女は大きく息を吐き出した。
「この部屋も、意外に広いのね」
 初めて知った、と尚香はためいきを奥歯でかみ殺した。
 頭が痛くなるような壁一面の竹簡。
 見ているだけでもうんざりするようなことが書いてある掛け軸。
 憩うには狭すぎる小さな卓子と椅子。
 花すら生けていない飾り気のない室内。
 用意された最低限の物しか存在しない部屋。
 陸遜『らしさ』というものが見つけにくかった。
 ただでさえ、留守の部屋は広いというのに。
 この部屋は特に広く見えた。
「……も、ね。
 この部屋も、ね」
 再確認する自分が嫌になる。
 これで何度目だろう。
 広い部屋で、その主の名を呼びかけたのは何度目だろう。
 数えるのが馬鹿らしいぐらいの……数だ。
 尚香は約束を忘れ去られるのに、慣れていた。
 大事になる人たちは、みな揃って忙しい。
 忙しすぎて、約束を忘れるのだ。
 どれだけ尚香にとって重要であっても。
 どれだけ尚香にとって大切であっても。
 諦めなければならなかった。
 今までも、ずっとそうだった。
 ずっと、ずっと……これから先も――。
「冗談じゃないわ」
 緑の目は書卓を睨みつけた。

   ◇◆◇◆◇

 勝ち戦に浮かれ騒ぐ。
 陽気な自軍に引きずられるように陸遜の心も高揚した。
 自分の手足のように、兵を指揮するのは、大きな充実をもたらす。
 極度の緊張感にさらされ、そこを綱渡りするのは悪くはない気分だった。
 体にピンと張った緊張が緩んだのは、帰国後、自室に戻ってからだった。
 朱い塗りの柱を持つ回廊を渡り、衝立の向こうに馴染みの書斎を見るころ、ようやく自分というものを見つめなおす余裕が生まれた。
 少年は安堵とも、落胆をつかない息を吐き出した。
 部屋には変わらぬ平穏が漂っていた。
 それが物足りないようで、満ち足りたようであった。
 陸遜の目が、ピタリと留まる。
 見慣れた書卓の上に、見知らぬ陶器の鉢があったのだ。
 深い色の鉢は一抱えほどはあるだろうか。
 陶器を集めるような趣味は持ち合わせていないし、そういったものを留守中に無断で持ち込む知人に心当たりもなかった。
 陸遜は気を引きしめて、鉢を覗きこんだ。
 底が見えるほど透明な水。
 その上を泳ぐように咲く白い花。
 夏を知らせる涼しげな花が咲いていた。
 自分のしでかした失敗に気がつき、陸遜は小さく笑う。
 不実さをなじられたほうが……楽だった。
 どんな顔をして、この花を見たのだろうか。
 どんな顔をして、この花を摘んだのだろうか。
 どんな顔をして、この花をここに用意したのだろうか。
 陸遜は、知らない。
 一生、知ることはできない。
 戦果は上々だったが、
「読み違えましたね……」
 勝負には負けた。
 それ以上に、自分の計算違いに胸が重くなった。
 間に合う、予定だったのだ。
 約束を守るつもりだったのだ。
「許して……もらうわけにはいきませんね」
 年上の少女は、不満を口にしながらも、許してくれるだろう。
 明るく条件をつけて、約束を破ったことをなかったことにしてくれるだろう。
 予想ができるから、許してもらうわけにはいかない。
 これはくりかえしてはいけないことなのだ。
 果たせない約束を重ねてはいけない。
 今まで、彼女に、たくさんの人がそうしてきたけれど。
 自分だけは、そうなってはいけないのだ。
「白だったんですね」
 大切だと思っていたのに。
 きちんと話も聞いていなかった。
 誰よりも守りたいと思っていたのに。
 約束、一つも守れない。

 赤でも白でも良かった。
 この花が咲いた日に、一緒に見ることができれば。
 それで、良かった。

 陸遜はためいきをついた。


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