この糸の色

 それは、いつものこと。
 どこにいても、どんなときでも。
 緩やかに呼び合うこの細い糸を絆と呼ぶのなら、運命の赤い糸に変えたいと、何度でも思う。

   ◇◆◇◆◇

 冬の江は、肌を切るような風が渡る。
 船団は粛々と戦地へ向かっていた。
 膝を屈するのを潔しとしない矜持と愛する大地を守りたいという意志を乗せて。
 大きな戦を初めて経験する少年は、走っていた。
 聡明そうなはしばみ色の瞳は、船の端から端までをさまよう。
 孫呉の主の船とはいえ巨大なものではない。
 心細そうなその姿は、とても目立った。


「陸遜」
 戟を担ぐように手にする武将に呼び止められた。
 全軍一の俊足を持つ少年は立ち止まり、拱手する。
「呂蒙殿」
 少年の表情が緩む。
「姫はおられたか?」
 呂蒙は声を潜め、訊ねる。
「それが」
 陸遜は困ったように微笑んだ。
 どこに行ってしまったのか。
 孫呉の誇るお転婆姫は姿を消した。
 元々、この戦に少女の持ち場はなかった。
 都に残るはずだったのだ。
 けれども蓋を開けてみれば、少女はちゃっかりと船に乗っていた。
 どんな手段を用いたのか定かではないが、それに孫権が気がついたのは、ほんの一刻前のこと。
 陸を離れてから半日も経った後だった。
 孫家の姫という立場の少女を船から叩き落すわけにもいかず、かといってちょうど良い持ち場もない。
 その処遇をどうするか、武将たちは頭を悩ませるはめになった。
 間の抜けた理由で軍議を開こうか、という段になって、少女は行方をくらませた。
 怒られるのが目に見えていたからだろう。
「見つからなくて。
 ……申し訳ありません」
 陸遜は言った。
 命令されたわけではなかったが、少年は少女を捜していた。
 それに文句をつけるような人物はいなかったが、一緒に捜してくれるようなお人好しもいなかった。
 そのうち出てくるだろう、というのが、みなの考えだった。
「お前のせいではないが……。
 まったく、どこにいかれたのか」
 呂蒙はためいきをつく。
「私も、検討がつきません」
 見失ってしまった背中は、思いの外、大きかった。
 張り詰められていく時間の中で、それだけしか考えられなくなる。
 ざわざわと心が揺り動かされる。
 敵の戦力よりも、少女のほうが気がかりだった。
 心がそれで占められていく。
「お前でもか、陸遜」
「どういう意味ですか?」
「いつも一緒にいるだろう」
 呂蒙は言った。
「皆さんが思うよりも、ずっと。
 …………一緒には、いないんですよ」
 はしばみ色の瞳を半ば伏せて、少年は白状した。
 身軽で足の速い少女に追いつくのが自分しかいなかった。
 少女よりも年下だった。
 お目付け役にはならなくても、重石程度にはなる。と期待された。
 小言がうるさいけれど、遊び相手としては悪くない。と思われた。
 めでたく利害が一致して、陸遜は尚香の側にいることになる。
「一番、一緒にいたように思えたが……?」
 武骨な男性は考え込むように、あごを撫でる。
 誰よりも一緒にいたかもしれない。
 ただ、それだけだ。
 深い意味があったわけではない。
「そうかもしれませんね。
 もう少し、捜してみます」
 陸遜は会釈すると、走り出した。


 こうして姿を捜すのは、何度目だろう。
 隠れ鬼が得意な少女の影を求めるのは、幾度目だろう。
 くりかえしすぎて、捜すのも、隠れるのも、当たり前になってしまったようだ。
 そんなことはないはずなのに。
 当然には、まだ遠すぎる。
 そこまで二人は一緒にいない。
 陸遜は立ち止まり、辺りを見渡す。
「どこに行ったんでしょうか?」
 心を落ち着けるために、口に出してみる。
 まるで、子どもの鬼ごっこのようだ。
 馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
 気にするものを間違えている。
 そんな自覚はあるけれど、心は思うようには従ってはくれない。
 生と死が息づく場所に、船は向かっている。
 弓の弦をキリキリと引いていくように、緊張感が絞られていく。
 時間は限られている。
 戦が始まる前に、どうしても少女に会っておきたい。
 話がしたい。
 もし、彼女が落ち込んでいたり……していたら。
 陸遜は口を引き結んだ。
 想像は悪いほうへと転がっていく。
 最悪の状況を考えるように、思考に癖がついてた。
 現実はいつも、人の考える予想できた範囲の数倍、性質が悪い。
 だから――。
 ふと、それが目に留まった。
 木箱が危うい均衡で、詰まれた一角。
 何故か、気にかかった。
 考えたときには、体は動いていた。
 陸遜は一気に距離を詰める。
 聞き耳を立てているだろうから、足音を消しても効果は薄い。
 それよりは範囲の外から、間を置かずに距離を縮めたほうが良い。
 経験論だ。
 陸遜は跳躍するように走って、木箱の影に回りこむ。

 捜し人はいた。

 迷子になった子どものように、膝を抱えてうつむいていた。
 見つけて欲しくなかったような。
 見つけて欲しかったような。
 そんな雰囲気を漂わせていた。
「捜しましたよ」
 陸遜は微笑んだ。
 大きな瞳が弾かれたように見開かれる。
 この季節にお目にかかれない色の双眸に、様々な感情が内包される。
 やがて、それは明確な感情になり、ギロリと陸遜をにらんだ。
「捜して欲しいなんて言ってないわよ」
 花びらのような唇は不機嫌に言葉を紡ぐ。
「知っていましたけれど、捜したかったんです」
 少年は苛立ちをぶつけられているのにも関わらず、喜んでいた。
 泣いていたらどうしよう。
 慰めの言葉が意味を持たないほど、落ち込んでいたらどうしよう。
 そんなことを考えていたからだ。
 予想が外れて、陸遜は嬉しかった。
「勝手ね」
「勝手ですよ。
 姫と同じです」
「……怒ってた?」
 視線が落ちる。
 船床に置かれた圏の縁を華奢な指先がすーっとなぞる。
 鍛え抜かれた鋼に、不安に揺れる緑の瞳が写りこむ。
「どなたのことですか?」
 陸遜は尚香の隣に座った。
 良い香りが鼻をくすぐる。
 女性らしい気遣いだろうか。
 華がありながらも、くどくない香りがした。
「ここに来るまで、呂蒙殿に会いました。
 心配していましたよ。
 孫権様は……怒っているかもしれませんね」
「周瑜は?」
 少女はぽつりと呟いた。
「まだお会いしていません」
 怒るだろうか。
 叱る可能性は濃厚だが、怒るとは考えにくい。
「もし怒っていても、許してくださいますよ」
 陸遜は言った。
 自分を含めて、みんな、孫家の末姫に甘い。
 どんな我がままな振る舞いをしても、最後は許してしまう。
「どうしても来たかった。
 陸遜だけ連れてきてもらえるなんて、ズルいじゃない。
 留守番だなんて、嫌だったのよ」
 尚香は言った。
「そうですか」
 陸遜は相槌を打つ。
 話を聞くだけで、少女の気持ちがすっきりするというなら、お安い御用だった。
「女だっていうなら、小喬はどうなるの?
 船上だから?
 何事も経験だわ」
「そうですね」
「どうしても戦いたかったのよ」
 尚香は船床を叩いた。
 痛々しい音がたつ。
 打ちつけられた拳も、傷ついた少女の心も。
 悲しくなるぐらい痛い音がした。
 陸遜は少女の手をそっとつかんだ。
 手をつないでる間は、拳を叩きつけるような真似はしないだろう。
「帰れなんて、誰も言いませんよ。
 江を泳いで帰るわけにはいきませんから」
 陸遜は苦笑した。
 持ち直した緑の瞳が少年を見た。
 やっぱり綺麗な目だと思う。
 何度見ても、何度見つめられても。
 心を偽らない。
 飾らない視線が純粋で、眩しいぐらいに綺麗だった。
「我がまま姫って思ってる?」
「今更でしょう」
「可愛くないわね。
 昔は……あんなに」
 尚香は口を引き結んだ。
 その言葉の続きを、陸遜は想像する。
 可愛かった――と続くのだろうか。

 出会った頃の少女は何でも手にしていた。
 足りないのは、悲しみ、苦しみ、痛い感情と経験だけだった。
 子どもらしい子どもで、陸遜はいつもその背中を追いかけていた。
 少女が泣くときは、悔しいときだけだった。
 悲しいことなど一つもなかったのだから、当然の結果だ。
 冗談にしては性質の悪い思い出話は、一晩では語り明かせないほどある。
 数年前のこと、どこかの本か何かで「誕生日」というものを少女が知ったとき。
 突然、祝えと言ってきた。
 贈り物をすぐに用意できるはずもなく、翌日になってしまったら、誕生日の次の日では意味がない、と怒った。
 理不尽な話だったが、陸遜は尚香の機嫌が直るまで、謝り続けた。
 またあるときは、ごっこ遊びで「囚われの姫君」を助ける王子になりたがった。
 活発な少女の遊び相手は、同じ年頃の少年ばかりだったので、幼友達一同は困ることになった。
 結局、陸遜が「囚われの姫君」役をやることになった。
 尚香は常に身勝手だった。
 傲慢な孫家の姫と見限ることもできた。
 ほどほどの距離を取って、深入りを避けることもできた。
 けれども陸遜は、それをしなかった。
 我がままなど気にならない魅力が、尚香にあったからだ。
 彼女は限りなく優しい。
 意地を張って、我を通すのに、他人を思いやる心も持っている。
 お気に入りの玩具が侍女の手違いで壊れたとき。
 「別にいいよ」と尚香は笑って、侍女を許した。
 陸遜は泣くか怒るかすると思っていた。
 だから、その優しさは奇妙にすら思えたものだった。
 眠るときですら手放さなかった、そんな大切なものが失われても、尚香は他人を責めたりはしなかった。
 身分のあるものがそうであるように、少女は優しく微笑んで、受け入れる。
 そして、どうしようもない運命のとき。
 少女は他人のせいにはしない。
 自分でできることを探す。
 諦めない。
 放り投げたりしない。
 最後までやりとげるのだ。
 どんなに自分が傷ついても、それを省みず。
 泣いて、誰かに救いの手を伸ばしたりはしない。
 その姿が不器用で、とても美しかったから、少女から目が離せなくなる。
 もっと見ていたいと思ってしまうのだ。
 
「陸遜は、私を捜すのが得意ね」
 尚香は苦笑した。
 気がつけば、少女の左肘には一対の圏がかけられている。
 接敵中を除けば、少女は片手に圏を一まとめにしていることが多い。
 大きな両手武器は邪魔になりやすいのだ。
 立ち上がる気力が湧いた証拠。
「姫がどこにいるか、わかるんです。
 きっと、運命の赤い糸で結ばれているからですね」
 陸遜は、そうであれば良いと思いながら言った。
「冗談でしょ。
 陸遜が何を考えているか、わからないわ。
 嘘ばっかりなんですもの」
 尚香は笑いながら言う。
 少女に対して、そんなに嘘をついただろうか。
 覚えがなかった。
「では、誓いを立てましょうか?」
「どんな?」
 緑の瞳が興味津々に覗き込んでくる。
「姫には嘘をつかない。と」
「本当に?」
「はい」
 陸遜はうなずいた。
「わたしのこと、好き?」
「はい、もちろん好きですよ」
 少年は即答した。
 嫌いな人間を捜し回ったりはしない。
 そこまで、お人好しになったつもりはない。
 少女は肩をすくめた。
「いくら数えても同じね」
 尚香は陸遜の手を振りほどく。
 言葉の意味を取りかねて、少年は考え込む。
 少女はいったい何の数を数えていたのだろうか。
 時間を数えていたようには思えない。
「脈。
 全然、変わらないんだもの」
 尚香は、ためいき混じりに笑う。
 それで手を振り払わなかったのか、と陸遜は納得する。
 こちらの思い通りには動いてはくれない。
「ちょっとぐらい、ドキッとしてくれてもいいじゃない」
 尚香は立ち上がる。
「姫に信じてもらえるまで、私はくりかえして言いましょうか?
 何度でも何度でも何度でも。
 あなたが好きだ、と」
「そんなに言ったら、言葉の価値が減るわよ」
「いつだって私は、姫のことばかり考えています」
 陸遜は言った。
 少女の手が伸びてきて、少年の首筋にふれた。
 節くれだった指が頚動脈を探る。
 少しだけくすぐったかった。
「平常心で言われても嬉しくないわよ」
 尚香はパッと離れる。
 圏をふらふらと揺らしながら、歩き出す。
 叱られに行くのだろう。
 陸遜はその一歩後ろをついていく。
「あなたを見つけられるのは、私です。
 評価してくださっても良いと思いますよ」
「そうね。
 陸遜が鬼だとすぐ見つかってしまうわ。
 次は一緒に隠れる?」
 尚香は小さく笑った。
「それも良いですね」
 陸遜はうなずいた。


 いつものこと、と言えるほど、ずっと一緒にいた。
 何度もくりかえした。
 どこでも、どんなときでも、少女の背中を捜す。
 物陰に潜んだ影を見つけ出すことができる間は「運命」と呼びたい。
 この緩く細いつながりを。


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