一瞬の記憶のために

「晴れたわね」
 弾む声に合わせて、真っ白な息が生まれる。
 墨を流したような景色に浮かんだその白さが彼女の無垢さを象徴しているようだった。
「そうですね」
 陸遜は相槌を打つ。
 実際のところ、晴れようが曇ろうがどうでも良かった。
 雨さえ降らなければ、それで良かったのだ。
 それでも
「晴れて良かったですね」
 と言う。
 傍らにいる少女の機嫌が良くなるから、晴れて良かったと思う。
「昼でも、夜でも、晴れているほうが気分が良いわ」
 尚香は言う。
 星をつかもうとするのか、闇に染まらぬ手が宙に伸ばされる。
 灯篭を持たせなくて良かった、と陸遜は思う。
 少女は、火を持っていることを忘れて、無心に手を伸ばすだろう。
 星影に縁取られた指先は女性らしく、夢幻のようにも思えた。
 目を離したら失われてしまう。
 そんな類のもののように思えた。
「開放感があるもの」
 尚香は陸遜を見て笑う。
 胸が満たされる。
 寒空の中、歩いているというのに、あたたまる。
 まるで沈まない太陽に照らされているように。
「姫らしいですね」
 陸遜も微笑む。
「馬鹿にしてるでしょ」
「まさか。そんな恐れ多い」
「どうかしら?
 陸遜だもの」
「どういう意味ですか?」
「そのままよ」
 尚香はクスクスと笑う。
 楽しげな足音を聞きながら、幸せをかみしめる。
 生きている、ということが嬉しい。
「今年も色々ありましたね」
 振り返るにはちょうど良い日だった。
 こんなときでなければ、過去を追うことはない。
 二人はまだ思い出話を語れるほど、時を共有していない。
 積み重ねた記憶は、数えられるほどしかないのだ。
「色々って片付けるには多すぎるんじゃない?」
「そうですか?」
 二人の間に流れた時間は、一年だったけれども、思い出は一年分も作れない。
 陸遜の知らない尚香がいる。
 一緒にいられなかった時間の分だけ、記憶が足りない。
「でも、こうして無事に一年を終えることができて良かったです」
 去年よりも、自分は成長できただろうか。
 知識が増えた。剣の腕が上がった。
 でも、大人に近づけたのだろうか。
 頼ってもらえるほどの。
「そうね。
 来年もよろしく」
 たやすく少女は未来を約束する。
「こちらこそ」
 陸遜はうなずく。
 やがて、足音すら消える。
 二人は立ち止まり、空を見上げる。
 月はない。
 あるのは満天の星空。
 落ちてきそうなほど近い、強い光。
 今宵の主役は自分たちだと主張する。
「ここまで歩いてくると、星も綺麗ね」
「周囲に邪魔になる光はありませんからね」
 陸遜は言った。
「もうちょっと見ていたい、って言ったら迷惑?」
 可愛らしいおねだりを口にする。
「いいえ。
 日が昇るまでお付き合いしても良いですよ」
 陸遜は言った。
 増えていく思い出のためなら、かじかむ手も気にならない。
 寒中水泳をすると少女が言い出しても、付き合いそうな自分がいる。と確信していた。
「陸遜は優しいわね」
 尚香は感心したように言う。

「あなたを独占したいだけです」

 陸遜は心の底から望むことを口にした。
 そのためなら、どんな苦しみも、辛さも、悲しみも我慢できる。
 一瞬きでも長く、少女の表情を見つめ続けられるのなら、どんなことも抑えられた。
「そう。ありがとう」
 尚香はニッコリと笑った。
 どうやら、遠まわしに言っても通じないようだった。
 それが少女らしくって、陸遜は微苦笑した。


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