止まることのない時の中で


 孫呉の主の居城。
 小さな人影が走廊を渡っていた。
 飾り気のない長袍がその人物の性別を教える。
 裳や霞披が似合いそうなほど、線が細い。
 不均衡な体の造りは、筋肉の存在を疑わせる。
 それもそのはず、人影は最年少の武将。
 孫呉の末姫よりも、さらに一つ年下。
 名を陸遜という。


 軽い足音を耳にし、陸遜は立ち止まる。
 仰々しい衣擦れの音を伴わない、床を蹴りあがる軽快な音。
 そんな音の持ち主は、一人きりだ。
 少年の口元が自然と綻ぶ。
 足音が陸遜に追いつくまで、あっという間。
 振り返るよりも早く名が呼ばれる。
「陸遜」
 何度、呼ばれても嬉しい。
 どんな呼ばれ方をしても、嬉しい。
 無条件に嬉しい。
 陸遜は振り返り、微笑みを少女に向けた。
「次の戦……っ!」
 柳眉を逆立てて、孫尚香は言った。
 言葉が途切れたのは駆けてきたせいだけではない。
 頬が染まっているのは、走ってきたせいだけではない。
 陸遜は知っていたけれど、問いかける。
「どうかしましたか? 姫」
「どうかしたじゃないわよ!」
 尚香は怒鳴り声に、少年は微笑み返す。
 二人の視線が宙で絡む。
 どこかに腰をかけて話すときは気にならない。
 立って話すときだけ、心にかかる。
 目線の高さが変わらない。
 そのことが気に障る。
 些細なことかもしれないけれど、少年にとっては重要な悩みだった。
 もう少し背が高くなりたい。
 来年、今の少女と同じ歳になったら、拳分ぐらいは背を上回ることができるだろうか。
 望みとは裏腹に、綺麗な緑の瞳は同じ高さにある。
 強い感情に染まる双眸は、春先の若葉よりも鮮やかだ。
「次の戦……、指揮を執るって……!!」
 尚香の拳がぎゅっと握られる。
「はい。孫権様から拝命しました」
 陸遜はうなずいた。
 先刻、賜ったばかりの命令だ。
 耳が早いと感心するべきだろうか。
 それとも、主君の妹への甘さを呆れるべきだろうか。
「残念ながら、姫とご一緒できません」
 姫は作戦から外されて、怒っている。
 そう判断して、陸遜は言った。
「一人で行くんでしょ?」
「一軍を率いていくわけですから、一人ぼっちではありませんよ」
 陸遜は苦笑した。
「そんなこと言ってるんじゃないわよ!
 ……大丈夫なの? 一人で」
 緑の瞳が曇る。
「姫?」
 少年は困惑する。
 自分は、もう何にもできない幼子ではない。
 背も伸び、体もしっかりしてきた。
 同世代の中では武術にも長けている。
 兵法の勉強も欠かしたことはない。
 少女よりも年少なのは動かせない事実だが、心配されるほど子どもではない。
「絶対、帰ってきて」
 尚香は言った。
 言葉よりも、その表情のほうが雄弁だった。
 陸遜はハッとする。
 気丈な少女の声に、明るさがなかった。
 花のような色の唇は、硬く引き結ばれていた。
 自分のそれより細い肩は、震えていた。
「大丈夫ですよ」
 陸遜は言った。
 自分だけが「特別」だと思っていた。
 人は簡単に死ぬのだ。
 死なない人間はいない。
 戦場へ行くのは、怖いことなのだ。
 忘れていた。
 憂う少女に気づかされた。
「そんなの返事じゃないわ」
「泣かないでください」
「泣いてなんかないわよ」
 今にも涙をこぼしそうな瞳が強がる。
「大丈夫です。
 心配しないでください」
 そっと手を伸ばし、頬をなでる。
 手の平で包み込んでしまいたかったけれど、何となく自分には資格がないような気がして、指先でふれる。
 これが最後のふれあいなのかもしれない。
 そうなってもおかしくはないのに、不思議と恐怖心が湧いてこなかった。
「絶対、帰ってくるって約束して」
 尚香が手を重ねる。
 武芸のせいで荒れた手の平は、それでも女性のものだった。
 柔らかで、繊細。
 とても傷つきやすく、あたたかい。
 心ごと守ってあげられれば、どんなにいいのだろうか。
「はい」
 陸遜はうなずいた。
 他ならぬ少女のためになることだ。
 たとえ空約束になったとしても
「必ず、姫のところへ帰ってきます」
 笑顔で少年は言う。
「絶対よ」
「絶対です」
 約束を強固にする。
 今のこの気持ちは嘘ではない。
 帰る場所は、少女のいる『ここ』だ。
 『ここ』へ帰ってきたい。
「約束破ったら、陸遜を切り刻みにいくわ」
「怖いですね」
 果たせないときは、指先の一欠けも少女に会うことはできない。
 尚香が陸遜を見つけだす前に、肉体はぼろのようになっているだろう。
 緑の瞳は、そうなっても見つけてくれるのだろうか。
 それは、とてもとても幸せなことのような気がした。
 好きと千回言われるよりも、もっと好きだと言われたような気持ちになる。
「そう思うなら、守るのよ」
「はい」
「一緒に行ければいいのに。
 そうしたら、陸遜のことを守ってあげられる」
「そんなに頼りないですか?」
「頼りになってくれたこと、あったかしら?」
 辛辣なことを少女は口にする。
 声からは、不安が消えていた。
 それに少年は、そっと息を吐き出す。
「これから頑張ります」
 陸遜は微笑んだ。
 挽回の機会はあると信じている。
 未来はこのまま続いていくと、願っている。
「期待してるわ」
 尚香は手を離した。
 だから、陸遜も手を離した。
 二人の間に残されたのは、微妙な距離。
 友だちというには近すぎて、恋人というには遠すぎる。
 ちょうど良い距離だ、と感じるのは、まだ子どもだからだろうか。
「ご期待に答えてみせますよ」
 陸遜の言葉に、尚香は笑みを見せる。
 本当に楽しそうな笑顔だったから、少年も釣られる。


 途切れることのない時間の中で、陸遜は願う。
 いつか、少女に頼ってもらえるような大人になりたい、と。


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