氓ノ哭

 季節が駆け足で過ぎていく。
 留まり続けるものは、何一つない。
 それは共有されている形式であり、蓄積された知識である。
 全てのものは流れ去る。
 知っていたが、司馬懿は遠ざかっていく時間に疑問を投げつけた。

「何故」

 言わずにはいられなかった。
 司馬懿は、取り残されたのだ。
 置き去りにされるのは慣れているつもりだった。
 思い通りにならない事柄に耐えるのにも、慣れているつもりだった。
 だが。
 季節が、司馬懿を置き去りに駆けていく。
 司馬懿だけを、綺麗に残して、全てをさらっていく。

 曹魏に勝利をもたらし続けた軍師は、時間に敗北した。

   ◇◆◇◆◇

 生命が尽きる音がする部屋。
「仲達」
 王が、軍師の字を呼んだ。
 司馬懿がこの地上で、ただ一人『王』と認めた男が……病床にあった。
「今年が豊作であっても、税は軽くしてやるといい」
 曹丕は言った。
 口元には、微笑らしき淡い翳があった。
「何があっても、だ」
「仰せのままに」
 司馬懿はうなずいた。
 税を採取しなければ、国は立ち行かなくなるが、民が田畑を捨てて逃げ出すほど課税すれば、国自体が成り立たなくなる。
 曹丕が禅譲を受けてから、国は潤いだしたとはいえ、それも中央だけのことだ。
 広く世界を見渡せば、耕し手もいないような田畑が続く。
「お前のそのような顔を見るのも、最後か」
 曹丕の笑みが苦笑に変化する。
「どういうことでしょうか?」
「困っているだろう。
 この我がまま皇帝め、とでも腹の内で、悪態をついているのか?」
「いえ、そのようなことは……」
「一度も思ったことがないのか?」
「ございません」
 間髪入れずに司馬懿は答えた。
 目の前の男は『王』だ。
 覇道ではない。王道を歩むものだ。
 天が下した御子ではないだろう。
 後の世の史家たちが簒奪者と罵るであろう。
 それでも『王』である。
 黄金の玉座に座り、地上を治める『王』なのだ。
 乱世に終止符を打ち、万民に幸いを与える『王』なのだ。
「嘘偽りも、そこまで堂々としていると、気持ちの良いものだな」
「心外です」
「……では裏切るのは私のほうか」
 曹丕は呟いた。
 青み帯びた灰色の双眸は遠くを見つめる。
「陛下?」
 司馬懿は眉をひそめた。
「できることなら……。
 私が――」
 曹丕は、司馬懿を見て微笑んだ。
 それは幼子を見つめる親の眼差しであった。
 完成された『仁』が、そこにあった。
 純粋で、無欠。
「――」
 王はささやき……そして、瞳を閉じた。
「陛下!! 陛下!!」
 終わりは、まだ先であったはずだ。
 こんなところで途絶えて良い道ではなかったはずだ。
 あと少し。
 ……あと少しで、動乱は収まろうとしていた。
 万民は『王』を戴き、幸福の美酒に酔うはずであった。
「陛下!!」
 司馬懿の声に、曹丕は無言を答えとした。
 永遠の沈黙を持って、答えとした。

   ◇◆◇◆◇

 『私はお前の望むものをくれてやれそうにない。
  お前なら手にすることができるであろう』
 幸せを願っている、と。
 皇帝は、司馬懿に……己の民に言った。
 最期の瞬間まで『王』であった男は、そう言い残したのだ。

 理想の『王』は去り、『王』にはなりえない司馬懿が残された。
 世界の均衡は再び傾き始める。
 天秤の片側が、じわりじわりと沈んでいく。

 大陸は新しい節を迎える――。


ボウノネ(造語)
氓=「民」に同じ。特に、国を亡くした民。
哭=「音」に同じ。または「なく」。声をあげて泣くこと。

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