愛のうた

「むー」
 先に音を上げたのは、妹のほうだった。
 ぺったりと床に倒れこむ。
 兄は、その愛らしい仕草に苦笑を禁じえない。
 穏やかな昼下がり。
 堂の中の空気も、和やかだ。
 戦乱の世とは思えないほど味わい深く、落ち着いた雰囲気がある。
 曹魏の跡取りと目される少年とその妹は、絹布を眺めていた。
 極上の絹布は揃い。
 書いてある文字まで同じだ。
 墨蹟は淀みなく、整っていて、間違いなく美しい。
 曹叡は、妹から父の字へと目を戻す。
「お父さまのばーかっ」
 東郷は呟く。
「完璧主義で、理屈っぽいんだから」
 少女は少年には言えないことを易々と口にする。
「じゃあ、叔父上のものにするかい?」
「意味ない!」
 東郷は上体を起こして、また絹布とにらめっこを始める。
「続けようか」
 少年は微笑みながら、父の字を追う。
 書かれた物にも意味はあるけれど、歌われてこそ詩はよみがえる。
 どこにも旋律は書いてないからこそ、それを調べながら。
「うん、頑張る」
 話を持ちかけたという責任感からか。
 それとも、それだけ楽しみだからか。
 少女は座りなおし、小さな手が裳裾をきちんと整える。
「東郷」
 少年は手を伸ばし、父に良く似た色の髪の乱れを直してやる。
 長くて、美しい色の髪に羨ましく思いながらも。
「ありがとう、お兄さま」
 父に良く似た色の瞳が嬉しそうに笑う。
 曹叡は微笑んで、髪から手を離す。

   ◇◆◇◆◇

 曹魏の勝ち戦。
 当たり前だけれど、父母が揃っての出陣となれば、子らにとっては吉報がもたらされるまで、不安で仕方がなかった。
 曹叡と東郷は待ちわびていた。
 同じぐらいに。
 でも、妹のほうが素直だったから
「お帰りなさい!」
 将兵としての勤めを果たし終わったばかりの両親に、駆けていく。
 父に抱きつき、母に微笑みを浮かべながら、頭をなでてもらう。
 小さな妹。
 その小さい体に収まらないぐらいに、感情が詰まっているのだ。
 曹叡は
「お帰りなさいませ。
 ご無事で何よりです」
 両親に頭を下げる。
「阿叡」
 甄姫は呼んだ。
 手を伸ばし、そして少年を抱きしめた。
「は、母上……!?」
 品の良い香りに包まれ、曹叡は驚く。
「留守をありがとう。
 また大きくなったわね」
 甄姫の手が曹叡の背を優しくなでる。
「当然、のことです」
 ドギマギしながら、少年は答える。
 母はあたたかい笑みを浮かべて、ようやく離してくれた。
 妹に強引に手を引かれながら父がやってくる。
「助かった」
 曹丕は、言った。
「お役に立てて、光栄です」
 曹叡の胸はいっぱいになる。
「あのね。
 今日はお父さまとお母さまに、聞いてもらいたいものがあるの。
 ね、お兄さま」
 東郷は笑う。
「座っていただけませんか?」
 曹叡は、両親に椅子を勧める。
 父は一瞬、母のほうを見る。
 母は微笑んだまま、うなずく。
 それから、夫婦揃って長椅子に腰をかける。
 曹叡と東郷は、両親に向かい合うように立った。
 少年は妹を見る。
 ちょっとばかり緊張した面持ちで、東郷はうなずいた。
 それが合図だ。

 少年と少女は唱和する。
 父が、母に贈った詩を吟ずる。
 込められた想いを壊さないように。
 受け取ったときの喜びを傷つけないように。
 そのときの記憶を損なわないように。
 子どもは一生懸命に歌った。

 最後の一音。
 それが空気に溶けて、無音が落ちた。
 少年の心拍数が上がる。
 隣の少女も同じようだったようで、小さな手が曹叡の衣を握る。
「ありがとう、二人とも。
 素敵な贈り物だわ」
 甄姫は目の端を軽くなでて、それから微笑んだ。
「嬉しかったわ」
 飴色と父が褒める瞳は、嘘偽りが一片も混じってない。
 ほっと安心して、少年は父を見た。
 曹丕は眉をひそめて、床を見据えていた。
「我が君」
 甄姫は曹丕の衣の裾を引く。
「いや、……。
 甄が嬉しかったのなら、それが答えだろう」
 歯切れ悪く父は言った。
 少年の心臓は跳ね上がる。
 悪いことをしてしまったのだろうか。
「お兄さま」
 東郷がさらに曹叡の袖を引く。
 少年は無理やり微笑みを作って、妹を見る。
「お父さま、恥ずかしいのね」
 ひそひそと東郷が言った。
 その声には、純粋な笑いと上手くいったという喜びであふれていた。
 納得がいった少年は、心からの笑顔を浮かべた。
「お時間を取らせてしまいました。
 これで、おしまいです」
 曹叡は頭を垂れた。
「ありがとう」
 二人の母は、もう一度、美しい笑顔で言う。
 見たかったものだ。
 楽しみにしていたものだ。
 兄妹は揃って、
「どういたしまして」
 満面の笑みで答えた。


『続・愛のうた』へ続く

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