紫陽花

 心を乱すように五月雨の雨が降る。
 藤姫は孫庇まで出て、霧雨に包まれていた。
 衣が濡れるのもかまわず、外の景色を見つめていた。
 だから、一番初めに気がついた。
 背の高い公達が文箱を持ってこちらに来るのが。
「やあ、お出迎えかな」
 友雅は階を上る。
「どういった用件でこちらへ?
 雨の日でも通いたい女人がいるのですか?」
 何故だろう。
 いつもそうだ。
 公達を前にするときつい言葉が出てしまう。
 もっと優しい言葉をかけたいと思うのに。
 思うだけで空回りをしてしまう。
「ああ、そうだね。
 雨の日でも通いたい場所だ」
 友雅は笑顔で言った。
 それは仕事で見せるような社交辞令のような笑顔ではなく、心から笑顔だった。
 親子ほど歳の離れている公達だというのに、ずいぶんと幼い笑顔だった。
 五月雨の雨のせいだ。
 心が千々に乱れる。
 藤姫は落ち着かなくなる。
「では、早くそちらへ行ったらどうですか?
 相手も待ちかねているのでしょう」
 藤姫は早口で言った。
 どうして御簾の外へ出てしまったのだろう。
 部屋にこもっていれば、公達に会うことはなかっただろう。
 嬉しそうに笑う顔を見ることはなかっただろう。
 藤姫は袖の中で握りこぶしを作った。
「お待ちかねだったのなら幸いだね。
 雨の中、来た甲斐があったよ」
 友雅の声が雨のようにしっとりと藤姫の耳に届く。
 稚い少女はうつむいて、唇をかむ。
 友雅にそこまで言わせるのは、なんて幸せな女人だろう。
 紫陽花の花の色のように、移り気な公達の心をとらえている。
 羨ましくすらあった。
 土御門邸で、星の一族として、大切にされている我が身であったけれども。
 叶わないこともあるのだ。
 視界に文箱が入った。
 藤姫はそろそろと顔を上げる。
「これを貴女に」
 友雅は言った。
「私に、ですか?」
 稚い少女は瞳を瞬かせる。
「本当は文遣いですまそうと思ったのだけれども。
 こんな雨だ。
 貴女がどうしているのか、思ってね。
 神子殿が帰ってしまって寂しくはないかい?」
「寂しいのは友雅殿の方ではないのですか?」
 何故だか、そう見えた。
「それでも私には貴女がいるからね。
 話し相手には困らない」
 友雅はどこか作り物めいた言葉を紡ぐ。
「それで、これは受け取っていただけないのかな?」
 と言った。
「お気遣いありがとうございます」
 藤姫は恐る恐る文箱を受け取った。
 中を改めると青色に染まった紫陽花と文が入っていた。
「私はこの花のように冷淡ですか?」
 藤姫はつぶやくように言った。
「神子殿も罪作りだ。
 我が宿で綺麗に咲いたから届けただけなのに、裏を読まれるとは。
 花言葉はすっかり覚えているようだね」
 友雅はパタパタと紙扇を開く。
 霧雨の中、この季節にはまだ早い香りが漂う。
 物憂げな香りは、公達そのものように感じられた。
「神子様が教えてくれたものは全部、覚えています。
 忘れられっこありませんわ。
 私は星の一族なのですもの」
 藤姫は言った。
「たまには、そのお役目から離れてもいいと思うのだけれどね。
 貴女のことだ。
 私が言っても聞かないだろう」
 公達は大袈裟に肩をすくめてみせた。
「友雅殿の言葉は軽いのですもの。
 もっと、丁寧に扱ったらどうですか?」
 稚い少女は笑みを零した。
「貴女に捧げる言葉には嘘偽りはないのだけれども、信じてもらえないようだね」
「誰にでも言っているのではありませんか?」
 藤姫は鋭く言った。
「貴女だけだよ」
 友雅は真っ直ぐ藤姫を見つめた。
 稚い少女の心臓がトクンッと跳ねた。
「子ども相手に何を言うのですか?」
「……たまに、私も貴女と同じ年頃だったらと思う時があるよ。
 何もかもから縛られないですむだろう。
 大人というのは存外、不便なものだよ」
 友雅は視線を逸らした。
「何か、あったのですか?」
「何もないから、寂しいのだよ。
 これ以上、貴女に愚痴をこぼしても重荷だろう。
 宿に帰るとするよ」
 パタパタと紙扇をたたんで、背を向ける。
 その背中が辛そうに見えて
「お気をつけて」
 と藤姫は思わず声をかけた。
 友雅は振り返らなかった。
 藤姫は遠ざかっていく背中を見送った。
 小さくなっていく背が切なかった。
 五月雨の中、たった一人で帰っていくのだ。
 悲しいに決まっている。
 藤姫は残された紫陽花と文を持て余す。
 何を書いて寄越したのだろう。
 藤姫は室内に戻った。
 そして飾るように折られた文を開く。

 『誕生日おめでとう』

 挨拶の文面もなく、流麗な文字で書かれていた。
 龍神の神子の声がよみがえる。
『二人の誕生日って近いんだね。
 じゃあ、真ん中バースデーをしよう』
 天からやってきた乙女が残していった多くの中の一つだった。
「覚えていてくれたのですね」
 稚い少女はつぶやいた。
 藤姫は今からでも間に合うだろうか、と思った。
 上背のある公達が好きな文の色は銀。
 返事は、まったく同じものだ。
 それで伝わるだろう。
 藤姫は墨をすりながら、橘の花は咲いていただろうかと思案した。
 花言葉は『追憶』。
 いまだに龍神の神子を思う二人に似合いの言葉だろう。
 藤姫が満たされないように、友雅もまた満たされない何かがあるのだろう。
 五月雨の雨が心を乱す。
 いずれは上がるとわかっていても、なおも雨は心を惑わさせる。
 どんな気持ちで公達は紫陽花の花を摘んだのだろう。
 藤姫はためいきを零した。


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