誕生祝い

 夏の終わり、世界は今までのつけを払うように、雨を降らせる。
 慈悲すら注がれることのなかった大地が潤う。
 雨が、世界を優しく包む。
 まるで龍神の神子のように、あたたかく、そっと……。
 霞む、柔らかな景色に稚い少女は笑む。
 欄干を乗り越え、廂を濡らす雫。
 床は色を深くし、香りを立ち上らせる。
 藤姫は辺りを見回す。
 人の気配はなく、しんとしていた。
 少女は御簾の前で立ち止まる。
 外まで出ていきたかったのだけれど、それは気が咎める。
 髪や袖を濡らせば、女房たちは悲しむだろう。
 こうして立っているだけで、髪と衣は水を吸っていく。
 それが気持ちよいと思う。
 自然の中に身を置くことは、幸せだと感じる。
 けれど、それは姫君らしくないことなのだ。
 邸宅の奥に、誰にも声を聞かせずに、ひっそりと生きていく。
 それが『姫』の生き方なのだ。
 藤姫はそれが当然だと信じ、それ以外の生き方など知らなかった。
 今年の春が来るまで。
 たっぷりとした袖を押さえ、おずおずと手の平を差し出す。
 冷たい雫が透明の珠になる。
 すぐさま小さな手を伝い、流れていく。
 あるいは、そのまま少女の手におさまる。
 雨はそれのくりかえしだった。
 慣れない感触に藤姫は、微笑む。
 天と地の間で、くりかえし行われる『雨』ですら、少女は知らなかった。
 雨を知らなかった。
 ふれようとは思わなかった。
 間近で見ようとは思わなかった。
 今年の春。
 龍神がその神子を遣わすまで、思ってもみなかった。
 教えられたとおりの生き方をして、望まれたとおりに一日を過ごして、そして、世界は完結していた。
 藤姫に変化をもたらし、五行をあるべき姿に整えた乙女は、役目を終え――。

 パタパタ
 御簾の内側の床を走る音。
 少女は手を御簾の内に入れる。
 床から伝わる振動に驚いて、藤姫が目をやれば
「神子様」
 いつもと変わらぬ姿の神子が走ってくる。
 乙女は、小袿や晴れの装束とは無縁だった。
 天より参りし、乙女に強要できる者も少なく、さほど制限されずに暮らしている。
「藤姫!
 今日、6月11日だよね!」
 息急きあかねは言う。
「ええ」
 途惑いながら、藤姫はうなずく。
「やっぱり……。
 詩紋くんが言ってたから、間違いないと思ったんだけど。
 藤姫に念のため、聞いてみようって……。
 やっぱり、今日が6月11日なんだ。
 ドタバタしてたから、全然用意してないよ〜。
 どうしよう」
「何かお困りですか?」
「今日は友雅さんの誕生日でしょう!
 つい、あっちを優先しちゃったから……じゃなくって、んーと。
 とにかく、お祝いをしたいんだけど、どうしよう。
 プレゼントとか……」
 あかねは『困った』と小さく笑う。
「誕生日というのは、4月にもしたものですわね。
 そのときは、天真殿のお祝いで」
「うん!
 その後、2ヶ月もあるから余裕だなぁって思っていたら。
 ギリギリまで、取り掛からなかったのも悪いんだろうけど……。
 友雅さんは何を喜ぶんだろう」
「『ぷれぜんと』というのは、祝う気持ちがあればよろしいのでしょう?
 祝いの言葉だけでも良い、と以前お聴きしました」
 藤姫は記憶をたどる。
 ここには、誕生日を祝う習慣はない。
 2ヶ月前、急遽決まった祝いで『ぷれぜんと』を用意できたのは、一部の人間だけだった。
 用意できなかった藤姫に、異世界からの来訪者はみな笑顔で言った。
 『祝う気持ちが、一番のぷれぜんと』だと。
「でも、それだと差がついちゃう」
 あかねは小さく呟いた。
「……?
 今、なんとおっしゃいましたの?
 聞き取れなかったのですが……、よろしければもう一度」
「あ、ううん。
 たいしたことじゃないよ。
 独り言!」
 あかねはにこりっと笑う。
 訊いてはいけないことだったらしい。
 藤姫はそれ以上追求はしなかった。
 姉のように慕う神子の心に添うよう。
 少女はそればかりを考える。
「友雅殿の誕生日も祝うのですね」
「あれ? 藤姫、嫌だった?」
 あかねは目を瞬かせる。
「いえ、そういうことではなく、神子様の故郷の習慣だとお聴きしましたから、それで勝手に思い込んでいました。
 天真殿や詩紋殿、それに神子様の誕生日だけを祝う、と」
 藤姫は言った。
「まさか!
 全員の誕生日を祝うつもりだよ!」
 心優しい乙女は断言した。
 本当に大地を潤す雨のようだ、と思った。
「それで、藤姫。
 友雅さんは何を贈ったら喜ぶと思う?」
「神子様からの贈り物であれば、何でも喜ぶと思いますわ」
「それだと幅が広いから、もうちょっと絞りたいんだけど」
「そうですわね……。
 あまり物に執着のないような方ですから、これと言ったものが……考えつきませんわ。
 祝いの言葉で十分なような気も」
 藤姫は頬に手を当てる。
 話題の公達は、ひどく醒めたような目をするときがある。
 まだ子どもである藤姫にはわからぬ、もろもろの想いや記憶がそうさせるのであろう。
 彼が欲するものがあるのか……。
 ないのかもしれない、と藤姫は思う。
「じゃあ、藤姫があげるとしたら?
 祝いの言葉以外で」
「私が、ですかっ?」
 驚いて少女は顔を上げた。
「う、うん。
 ナイショにしておきたいんだったら、別にいいんだ。
 今日の夜には、わかるから。
 ちょっと参考にしたかっただけなんだ」
 あかねは言った。
「……難しいですわ。
 『ぷれぜんと』を差し上げるなんて、考えていませんでしたもの」
 藤姫は寂しくなった。
 せっかく神子から頼りにされたのに、応えることができなかったのだ。
「じゃあさ、二人で考えない?
 一緒に考えれば、良い案も思いつくかもしれないし!
 藤姫がよければ……、なんだけど。
 どうかな?」
 あかねは顔の前で手を合わせた。
「ええ、神子様がお望みなら、喜んで」
「ホント?
 ありがとう!」
 嬉しそうに乙女が笑う。
 それを見て、藤姫も胸があたたかくなり微笑んだ。


 そして、6月11日はつつがなく終わった。
 その4日後の6月15日の祝いの方が華やかであったことに、友雅が苦笑したのは、また別のお話。


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