藤見

「これは素晴らしい」
 藤棚の下、橘友雅は誰に聞かせるのでもなく、つぶやいた。
 春特有の柔らかな水色の空に薄紫色の花が良く似合う。
 爽やかな風に吹かれて、さざめく藤波。
 甘いだけではなく、高貴な香りが友雅を包む。
 藤の花が揺れ、葉がささやく。
 この屋敷の藤は本当に美しい。
 花に順をつけるのは無粋な気がするが、他の家の藤よりもことさら輝いて見える。

「友雅さん」
 明るい声が男を呼んだ。
「これは神子殿」
 友雅は振り返った。
「いや、照り映える姫君とお呼びした方が良いかな?」
 かつて龍神の神子と呼ばれた少女に微笑みかける。
「は、恥ずかしいからやめてください!」
 あかねは真っ赤になって言う。
「おやおや、本当のことなのに。
 有名だよ、土御門邸の照り映える姫君の美しさは」
 友雅はクスクスと笑う。
 務めを果たしたその後で見ても、魅力的な少女だ。
 惜しむらくは、友雅の好みではないと言うところだろう。
「髪を伸ばしているようだね。
 彼の好みかな?」
 友雅が尋ねると、あかねはうつむいた。
 京に来たばかりの頃は、肩にかからない程度であったその髪は、肩を覆う程度の長さになっていた。もう少し伸ばせば、結婚に支障がない程度の長さになるだろう。それまで相手は待つつもりなのだろうか。
 あの男ならいつまでも待ちそうだ、と友雅は苦笑した。

「若いというのは良いねぇ」
 片手で扇をパタパタと開く。
「こちらまで熱くなれそうだ」
「友雅さん、ずいぶんと久しぶりですね。
 何か用があったんですか?」
 あかねは話をそらそうとする。
 その可愛らしいしぐさに、友雅は折れてやることにした。
「用がないと来てはいけないのかな?」
 友雅はあかねの顔を覗き込む。
「用がないと来ないじゃないですか。
 他の人は、ちょくちょく来てくれるのに。
 役目が終わってからは」
「お邪魔虫にはなりたくなかったのだよ。
 二人きりにならなければ、なかなか進まないこともあるだろうと。
 気を利かせてみたんだが、……余計なお世話だったかな?」
「藤姫が寂しがっていました」
 あかねは友雅の目を真っ直ぐに見つめる。
「モテる男は辛いね」
 友雅は視線を外す。

「今日も用事で来たんですか?」
「用といえば用だし、用がないといえば用がないに等しい」
 友雅は謎かけのような言葉を言うと歩き出した。
 それにあかねもついてくる。
「藤姫に会ってから、帰ってくださいね」
「本当に姉妹のようだね。
 仲良きことは美しきかな」
「はぐらかさないでください」
「もちろん、藤姫に会いに行くよ。
 今日の用事は、それだからね」
 友雅は心配性の少女に微笑みかける。
「本当ですか!?」
 あかねはにこっと笑う。


「どんな風の吹き回しですの?」
 星の姫君は開口一番に言った。
「貴方が寂しがっているとお聞きしたので慰めに」
 友雅は手慣れたしぐさで御簾をくぐる。
 勝気な瞳と視線が絡む。
「冗談ですよ。
 世界で一番美しい藤の花を見に来たのです。
 今年も美しい」
 友雅は藤姫の傍らに腰を下ろす。
「ああ、お父様の藤ですのね」
 藤姫は納得したように微笑を見せる。
 かつて、十二単で正装し、金の冠をつけた星の姫君も、今は務めから解放されて小袿姿。
 年頃の少女らしい格好であった。
「きっと京で一番美しい藤ですわ。
 友雅殿が、藤の花がお好きとは意外です。
 わざわざ藤を見るために、こちらにいらっしゃるなんて」
「美しいものを愛でるためなら苦労はいとわない質だよ」
「まあまあ」
 藤姫は大きな瞳をさらに大きくして驚く。
 それから頬に手を当てて笑みを零す。

「花はこちらに歩いてきてくれないからね」
「それはそうですわ」
「咲いているものを手折っていくのも情がないように思われる。
 それなら、私から歩いていかなければならない」
 友雅は扇を弄ぶ。
「そんなにお気に召したなら、持って行かれます?」
「左大臣殿に叱られてしまうよ」
「大丈夫ですわ。
 私がお父様を説得します」
 藤姫は無邪気に言う。
「それはいずれかの機会にしよう。
 春は毎年巡ってくるのだからね」
 友雅はゆったりと扇で風を起こす。
 男の口元には微かな笑みが広がった。


 花に順をつけるのはひどく無粋な気がするが、この広い世界で一番美しい藤の花は、目の前の少女に違いない。
 友雅は思った。


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