日の曜日

「最近、陛下の外出が目立つ」
 ジュリアスが言った。
 首座である光の守護聖らしい責任感だった。
 気にかける必要などないのに。
 ジュリアスの向かい側に座るルヴァは、苦笑する。
「あー、そうですか?」
 日の曜日は、休み。
 切迫した状況にない限り、守護聖も女王も職務から離れることが許される。
 金の髪の少女が本来の姿に戻れるのだ。
 軽やかな足取りは、春風よりも自由だろう。
 女王候補だった頃のように、あちらこちらへと出かけているのだろう。
 それについていけないのがほのかに……寂しいと感じる。
 でも、仕方がない。
 日の曜日は、休みなのだ。
 守護聖だから、女王だから、と言い訳ができない。
 臆病な人間は手をこまねくことしかできない。
 それが日の曜日だ。
「毎週出かけている」
 言葉と共に視線が落ち、二人の間にさまよう。
 青い双眸は白と黒の格子模様をにらんだ。
「よくご存知ですねー。
 ですが、ロザリアも一緒なのでしょう?
 心配することはありませんよ」
 ルヴァは責任感の強さに感心しながら、膝に載せた厚い本をめくる。
「何かあってからでは、遅い」
「何もありませんよー。
 ジュリアスも、セレスティアに行ったことがあるでしょう?
 あの場所は、とても平和ですよー」
 ルヴァは黒い駒に手を伸ばす。
 二つの駒の間で悩み、やがて『騎士』を進める。
 どちらの駒でも良かったのだが、気分的なものだった。
 ルヴァの予想通りに、白い駒が出すぎた黒の『騎士』を奪う。
 ブルーグレーの瞳は本を確認する。
 格子模様の上と、本の図はまったく同じだった。
 嬉しくなって本を閉じる。
 ルヴァは『王』の喉元に、黒い駒を動かす。
「チェックメイト、ですね」
「そのようだ。
 次は、本なしで対戦したいものだ」
 ジュリアスは言った。
 二人の間にあるチェス盤は、白黒の駒が入り乱れている。
 どちらが勝ってもおかしくない状況だった。
「それはまたいつかの機会に」
 ルヴァは微笑む。
 教本なしに、チェスの名手と渡り合うのは難しい。
 次の日の曜日でも、その次でも難しいだろう。
「ところで、『騎士』を選んだ理由を知りたい。
 確かにそちらの方が痛手は少ないが……、悩んでいたように見えた」
「ああ、それはですねー。
 やはり、囮にするのは気が引けます」
 ルヴァは動かさなかった駒にふれる。
 駒は『女王』。
「そなたらしい」
 ジュリアスは苦笑した。

    ◇◆◇◆◇

 セレスティア、リブル・バランス。
 天井まで埋め尽くす本の林。
 二人の少女がメモを片手にさまよっていた。
 対照的な少女たちに、本好きな者たちの手も止まる。
 年頃の少女特有の、華やかな話し声や笑顔が目立つこともあるが、それだけではない。
 そこに二人がいるだけで、見慣れた場所の空気が変わる。
 白とも透明ともつかない清浄な光に包まれるのだ。
 常連になりつつある少女たちに、今日も好奇な視線が集まる。

 金の髪の少女は、ためいきをついた。
 本の林も、息のつまるような沈黙も、見知ったもの。
 むしろ、本に重なるイメージが心の緊張を解く。
 ためいきをつかせる理由は違うところにある。
 リブル・バランスには、まるで図書館のようだった。
 誰かに手に取られる瞬間を待ちわびながら、隙間なく整然と本は並ぶ。
 本棚でできた林の間を歩き、お目当ての本を探すのは、本好きの人には、至福なのだろう。
 だから、やや効率が悪くなっていた。
 時間が限られている人間には、不親切だった。
 本が見つけづらいのだ。
 もちろん、手間を惜しんで、店員に探してきてもらうこともできたし、指定の場所に本を届けてもらうこともできる。
 けれど……。
「アンジェリーク。
 あの本じゃなくって?」
 青い瞳の少女が指を指す。
 アンジェリークは、メモと本を見比べる。
 タイトルと著者の名前をチェックする。
 メモとまったく同じだった。
 嬉しくなって、アンジェリークはロザリアに抱きついた。
「ありがとう!
 あの本だわ」
 付き合いの良い親友に感謝する。
 嬉しくて、嬉しくて、気持ちが胸からあふれかえる。
「間に合ってよかったわね」
「本当に!
 もう、無理かと思っていたわ!!」
 アンジェリークは叫んでから、気がついた。
 あからさまな視線が二人に集中していることに。
 ここは本屋なのだ。
 騒ぐような場所ではない。
 呆れたような眼差しと、忍び笑いに包まれる。
 青い瞳も苦笑していた。
「ごめんなさい」
 アンジェリークは赤面する。
「それよりも、本を買って帰りましょう」
 ロザリアは失敗を責めずに、穏やかな物腰で言う。
「ええ」
 それに励まされ、少女はお目当ての本を棚から引き抜く。
 厚く、しっかりとした装丁の本。
 ずっしりと腕にかかる重みは、期待に変わる。
 ようやく出会えた本なのだ。
 喜んでもらえるだろうか。
 数日後に迫った未来を想像すると、胸が弾む。
 宝物のように抱きしめ、レジまで持っていくと店員が笑う。
「贈り物ですか?」
 本屋では珍しい問いかけに
「はい!」
 金の髪の少女は機嫌よくうなずいた。


 数日後。昼下がり。
 執務から解放された金の髪の少女は、地の守護聖の執務室の扉の前に立つ。
 時間が時間だから、もう一番ではない。
 それでも、今日でなければ意味がないから。
 ラッピングした本を後ろ手で隠して、ノックする。
 やがて、大きな扉が人間一人分開く。
「陛下……。
 今日は千客万来ですね」
 ブルーグレーの瞳は軽く驚く。
「お誕生日、おめでとう!」
 誰かに先を越されただろうけど、アンジェリークは言った。
 まだアンジェリークは言ってないのだ。
 一番ではないからと言って、言わないのはもったいない。
 誕生日は一年に一度しかやってこない。
 一年に一度しか、言うことができない言葉なのだから。
「あー、ありがとうございます。
 わざわざお越しいただいて……。
 嬉しいですよー。
 その、もし……よろしければ、お茶でもどうですか?」
 ルヴァは扉を大きく開き、招く。
 親しみを感じる常盤色の世界。
 悠久の時間が寄り添う空間だった。
 壁一面の本棚は、リブル・バランスとは違う空気を漂わせていた。
「ええ、喜んで!
 その前に、ルヴァにプレゼントがあるのよ」
 アンジェリークは背に隠していた本を差し出す。
 この時のために、ずっと準備をしてきた。
「お気持ちだけでも、十分嬉しいのに……。
 何と言えばいいのか。
 ありがとうございます。
 ……本ですか?」
 ルヴァは受け取り尋ねる。
 ブルーグレーの双眸は、期待と喜びでいっぱいになる。
 少女の胸もいっぱいになった。
 頑張った甲斐があった。
「後で開けてね。
 今はルヴァのお茶が飲みたいから」
 すぐにでも本を読み始めそうな人を止める。
 もう少し、話をして、独占したい。
 誕生の祝いをしにきたのに、ちぐはぐで、自分でも変だと思う。
 でも、偽ることのできない気持ちだった。
「はい。
 すぐにお淹れしますよー」
 穏やかな昼下がり。
 本の多い書斎に、アンジェリークが持ってきた本が増える。
 赤いリボンのついた包みが机の上に載る。
 まるで特等席のように。
 すぐ読む本の場所に置かれたことに、自然と頬が緩む。
「この本は、リブル・バランスですか?」
「ええ、そうよ」
 アンジェリークはドレスの裾を気にしながら、椅子に座る。
 女王になってからは、丈の長い服を着る機会が増えた。
 ドレスの裾さばきも上手くなった、と自分でも思う。
 即位したばかりの頃は、たっぷりとした裾に途惑い、扱いに困ったりした。
「ジュリアスが心配していましたよ。
 外出が多いと……。
 セレスティアは楽しいところですからね。
 ついつい足を運んでしまう理由もわかります。
 次からは、その心配を減らせるようにするといいでしょうね」
 洗練された手つきで、ルヴァはお茶を淹れる。
 取っ手のないカップに、黄色を含んだ緑のお茶が注がれる。
 ホッとするような香りがした。
「ルヴァは心配してくれた?」
 特別だと言ってほしくて。
 少しでもそう思ってほしくて。
 アンジェリークは尋ねる。
「あー。そのー。
 ロザリアも一緒だと聞きましたから……。
 えー、本当に、ちょっと、だけですよ。
 信用していないわけじゃないんですが……。
 言い訳がましいですね。
 こういうごまかしはよくありません。
 ……羨ましかったんです」
 ブルーグレーの瞳がアンジェリークを見つめる。
 守護聖で、女王で。
 だから、心配したり、されたりするのは特別じゃない。
 そう知ってるけど、ちょっとは違うかもしれない。
「じゃあ、今度は一緒に行きましょう!
 そうしたら、心配が減るでしょう?
 それに、私もルヴァと見て回りたいわ。
 まだ行ったことのない場所がたくさんあるのよ」
 きっと、うなずいてくれる。
 確信しながら、アンジェリークは言った。
「それは楽しそうですねー」
 ルヴァは微笑んだ。


 日の曜日。
 二人は、セレスティアで立場を忘れて楽しんだ。
 まるで恋人同士のように。


アンジェリークTOPへ戻る