君ヲ想フ


 沈寂が夜を支配する。
 枝葉を茂らせた梢にかかった細い月も、黙したまま天を渡る。
 落ち着いた藍で染まった庭院は、陽を乞うように無口だった。

 その中を、佳人が過ぎる。
 かつて共に歩いた誰かとの想い出を一つ一つ拾い集めるように、庭院をめぐる。
 神話の世界からするりと抜け出してきたような美しい女人。
 類まれなる美質の数々を紙に写し取れる者はいない。
 どんな美辞麗句も彼女に足りない。
 その面に浮かぶ愁いすら、心憎い装飾品。

 最高に整った舞台を見るものは、物言わぬものばかり。
 佳人は独り、庭院を歩く。
 歩くことが義務のように、歩き続ける。
 甘やかな飴色の瞳はかげりが濃く、その唇はかすかに震えている。
 たった一人の「誰か」。
 その瞳は探していた。
 その唇は名を呼ぼうとしていた。
 けれでも、瞳には静かな夜の庭が写るだけ。
 唇は音を紡ぐことはない。


 誰よりも近くにいたから、この空白は身を二つに裂かれたように辛い。
 同一のものになれるように、願ってきて、そうであるように努力してきた。
 いつでも、どこでも、一番近くにいた。
 出会ってから、つい先日まで。
 けれども、今は違う。

 離れている。

 何よりもその「心」に距離があった。
 軍場に立てば計略のため、別行動をすることもあった。
 そのときは、胸苦しくはなかった。

 
 甄姫はようやく立ち止まった。
 白い花薔薇が咲き零れるあたりで、空を仰いだ。
 誇り高い香りもなんの慰めにもならない。
 幾千の星が密かに瞬いていた。
 自分はまるで星のようだ、と思った。
 焦がれる陽が上る頃は空から姿を消す、あの星々に似ている。

 陽が今、ここにいないこと。
 星が陽の傍にいられないこと。

 そっくりだと感じた。
 いっそのこと、泣くことができたら、この苦しみは軽くなったかもしれない。
 嘆き、恨めば、苦しむことはなかったのかもしれない。
 哀しんでいるよりも、怒っているほうが自分には似合っている。

 けれでも、瞳は涙を一滴も流さない。
 唇は恨み言をこぼすことができない。

 果てのないような苦しみの根源は、唯一つの想いであるから。
 切り離して考えることも、ないものとすることもできない。
 それを抱え込んでしまったのは、他ならぬ自分。
 至上の宝だと思っているから性質が悪い。

「ただの女であれば、良かったのに」
 甄姫はつぶやいた。
 声は、跡形もなく溶けてしまう。
 庭院は再び静寂に覆われる。
 戦いに出ることもできないか弱い女であれば、この苦しみは馴染み深いものであっただろう。
 己は違うから、戦場に独り旅立った夫が許せない。

 そして、夫はただの男ではないから、無事を願う言葉をかけることはできなかった。
 この世に生み出されなかった、ありふれた言葉が花薔薇の棘のように、甄姫を突き刺す。

「どうか、ご無事で。
 負けてもかまいません。
 あなたの命があるのなら」

 甄姫は言った。
 言えなかった言葉は、あっさりと音になった。
 かけるはずの人は、空の彼方、地の向こう。
 この言葉は届くはずがない。
 甄姫は、祈るように組んだ指を解くことができなかった。
 恐怖が心を揺らす。
 今までは誰よりも傍にいた。
 その命を守るために、自分の身を盾にすることができた。
 
 なぜ、夫が自分を置いていったのか。
 それがわからない。
 一番近くにいたのに、見失ってしまった。
 だから、悲しみが深くなる。

 「心」が遠すぎて。
 夜がそっと口を閉ざす。




◇◆◇◆◇




 藍が深い夜だった。
 こんな夜は、這うように静かに時が刻まれていく。
 戦場には不釣合いな空を、青年は仰ぐ。
 天には寡黙な白銀の月。
 ほっそりとした繊細な月に、妻の姿が重なって見えた。
 太陽と違い地上を焦がすことのない慈悲深い月は、潔白で美しい。

 常ならば、傍らにある笛の音がないことが惜しまれた。
 
 孤、悲シム

 後悔を共に、胸に湧き上がる感情は、今宵の夜にふさわしかった。

「いかがなされましたか?」
 心地よい感傷から、青年を現実に引き戻す声。
 曹丕は不機嫌に元教育係を見やる。
「供も連れず、このような人気のない場所で、何をなさっていたのですか?」
 司馬懿は言った。
 供も連れていないのは、どちらも同じ。
 それなのに、司馬懿は曹丕に注意を与える。
 物言いに、慇懃かつ侮るような響きを含ませるのは、誰もができることではない。
 曹丕は哂った。

「甄がここにいないことを、再認識していた」

「ずいぶんとお暇なことで。
 ご自分でお決めになられたことでしょう。
 後悔しておられるのですか?」
 司馬懿は大げさにためいきをついてみせた。
「していたが、過去をやり直すつもりはない」
 曹丕は言い切った。
「何故と、尋ねてもよろしいでしょうか?」
「わからぬのか?」
「一向に」
 澄まし顔で、司馬懿は言う。

「近すぎると当たり前になる。
 私は、甄を当然の事象に貶めたくなかった。
 人は簡単に、大切なものを見失う」
 父のように空箱を贈りつけるわけにはいかまいよ、と曹丕はつけたす。
「なるほど」
「それに……。
 帰りたい、と思うことは悪くはない」
 満足そうに青年は言った。

 帰りたい 帰りたい
 まだ 帰れない
 帰りたくても 帰れない

 悲しみに似た思慕。
 甘い痛みに、妻のかいなを思い出す。
 遠く離れてようやく見つけ出すことができる想い。

 独りは寂しい。
 
「では、早く帰国いたしましょう」
「期待している」
 曹丕は言った。




 静かな夜…………、君を想う。


お題配布元:丕甄的20題  16.君ヲ想フ
「丕甄祭り」に投稿された室生月子さまとりんごさまの合作絵のイメージを元に、お二人の承諾を得て書いた作品です。
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