籠鳥は空の青さを恋う


「仲達、己の頭の良さを恨んだことはあるか?」
 唐突な問いかけに、側に控えていた青紫の袍をまとった痩躯の男は途惑う。
 濡れ光る黒羽扇をゆったりと扇ぎながら、
「私が生じた時からの記憶をたどってみましたが、私は私でありますから、ございませぬ」
 司馬懿は無難な答えをひねり出した。
「そうか」
 歳若い公子は短く言った。
 それで会話が途切れる。

 頭の切れすぎる青年は、いつも先を見据えている。
 常人には理解できない速度で未来が見えている。
 それ所以の突拍子のなさ。
 司馬懿にとっては、迷惑以外の何ものでもない青年の魅力の一つだった。

 色素の薄い瞳が窓の向こうに投げられる。
 何か外にあるのだろうか、と司馬懿は外を見る。
 面白みのない青空があるだけだった。
「籠の鳥は、籠から出してくれる者を待っている。
 それは恋情ではあるまい……」
 独り言のような小さな声が、淡々と言った。
 あまりに感情がにじまないため、それが殊更さびしげに響く。
 司馬懿の視界にも、鮮やかな尾羽を持つ鳥が飛び行くのが入った。
 この辺りでは珍しい南国の鳥。
 たしか、青年が己が妃に与えたものではなかったか。

「哀れな」
 司馬懿はうめいた。
 籠の鳥は、この冷たい氷が降る空では、季節を越すことができるはずがない。
 人の手で保護しなければ、その小さな生命は散ってしまう。
「そうであろうか?
 自由を望む心というものは得てして、愚かではあるが、枷をはめることなどできぬものだろう」
 曹丕はこともなげに言った。
「では、あなたは籠の入り口を開けるのですか?」
 司馬懿は教え子に問う。
「籠の中から小鳥を出してやったつもりが、私自身が新しい籠になってしまったようだ」
 空にも似た色の瞳は、透き通った蒼穹を凝視し続ける。
 鳥影はすでにない。
「籠の大きさにもよるでしょう。
 小さな籠では窮屈ですが、天と錯覚するほどの大きな籠であれば、鳥は外に出たいとは思わぬでしょう」
 司馬懿は空を仰いだまま言った。
「ふっ。
 そなたがそのようなことを言うとは思わなかったな」
 青年は小さく笑った。
「お褒めにあずかり恐縮です」




 魂がからからに乾き、引きつれるほどに望んでいた。
 恋々と。
 自分をここから出してくれる人を待ち焦がれていた。
 
 あなたは幸せよ。
 こんなに美しいから、望まれて嫁ぐんですもの。
 あの名家に嫁げるんですもの。
「はい、お姉様」

 奥様は幸せですわね。
 こんなに美しいから、袁熙様のただ一人の妻として想われて。
 そうそう手に入る幸せではありませんよ。
「ええ、そうね」

 幸せであると言う。
 みな口々に言う。
 ならば、「幸せ」なのだろう……。
 けれども、それを息苦しいと感じるのは、どうしてなのだろうか?
 私は美しいから、幸せ……。
 この見てくれだけが褒められる。
 本当の「私」はどこへ行くのだろう?

 日に日に深くなっていく、悩み。
 息の仕方がわからなくなる。
 焦りが身のうちに降り積もっていく。
 戦場はそれを忘れさせてくれた。
 命のやり取りをする場所で、ようやく生きていることを実感する。

 戦場に出ることを夫である袁熙様は望まない。
 露骨に不快な顔をされる。
 でも、私は私であることをたしかめずにはいられない。


 運命は到来する。
 最後で最大の選択。
「私と共に来い」
 戦場に朗々とした声が響く。
 けして大きな声ではないのに、よく通る。
 青い焔を凝り固めたような瞳が、甄姫を射抜く。
 視線をそらすことができない。
 無礼者と、この場から去ることができるはずなのに、少年と呼んでもいいような歳若い男の話を聞いている。
 胸が高鳴る。
 戦いの中の高揚感とは違う。
 何故なのか、甄姫自身にはわからなかった。

 今まで見てきたどの男とも違う。
 いや、こんな人間はいただろうか?
 生きるために戦う醜い自分を美しいと言った者が。

 その手は乞うていたもの。
 ずっと、待っていた。
 彼を……。




 風景は今朝見たときのままだった。
 絹の帳に囲まれた寝室の一角に置かれた華美な銀の鳥籠の中の鳥まで同じだった。
 予想外の展開に、青年はやや驚いた。
 気分の良い意外性だった。
「戻ってきたのか」
 曹丕はつぶやいた。
 小鳥は止まり木の上、眠っているようだった。
「ええ。
 籠から飛び出したときは、びっくりしましたわ」
 返事が返ってきた。
 振り返れば、艶やかな微笑をたたえる妻。
 蕩けるような甘い香りが胸をすく。
「自ら囚われるとは」
「籠が気に入っているのかもしれませんわ」
 甄姫は籠の縁をなぞる。
 灯の下、ぼんやりと銀の光が揺れる。
「気に入る?」
 曹丕は淡い光の軌跡を追う。
「ええ」
「そういうこともあるのか……」
「私は鳥ではありませんから、鳥の気持ちはわかりませんが、そうだったら良いと思いますわ。
 囚われているのではなく、望んでここにいる、と」
 甄姫のささやくような声が快い。
 青年の瞳に和やかな光がにじむ。
「いずれにせよ、帰ってきてくれて安心していますわ。
 せっかく我が君からいただいたものですもの」
「そうか」
 曹丕は微笑んだ。


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